長嶺征一さん、若かりし頃は、飲む、打つ、(買うについては聞きそびれました)と奔放な日々を過ごされたようです。最近奥様を亡くされ、心行寺の庭掃除などを手伝いながら、供養の日々をお過ごしとのこと。古希を過ぎて枯淡の境地で、仏様をお守りする日々に生きがいを見出しておられるご様子。

   心行寺寺男長山征一

 まずは長嶺さんの案内で五層石塔から見て回りました。

   心行寺五層石像

 元亨4年(1324年)の銘があり、江東区内に現存する石塔中もっとも古い年号を記録している金石文(金属や石に記された文字資料)とのことです。

墓域に足を踏み入れると鶴屋南北のお墓があります。

   心行寺鶴屋南北墓

 お宝発見と胸が躍りましたが、このお墓は第五世のものでした。

 鶴屋南北と言えば、東海道四谷怪談が有名ですが、その鶴屋南北は第四世です。そもそも鶴屋南北は第一世から第三世までは歌舞伎役者でした。

 第五世は第四世の外孫と言われていますが、独創性に乏しく戯作者としては今一つという評価のようです。ただ、河竹黙阿弥を育てたことで知られています。

 墓域に入って左側奥に工藤平助の墓があります。

   心行寺工藤の墓

 墓には「工藤君元琳甫之墓」と刻まれています。

 工藤平助は余り知られた人物ではありませんが、天明3年(1783年)、時の老中田沼意次に「赤蝦夷風説考」を献上しました。ロシア人の南下に対処すべく、北辺開発の必要性を説いたものでした。幕府は、この本に啓発されて蝦夷地の巡検使(調査隊)を派遣し、その報告に基づいて大規模な蝦夷地開発計画を立てましたが、その計画は田沼の失脚とともに中止されてしまいました。

 最後に、長嶺さんに、一見すると何の変哲もない五輪塔に案内されました。

   心行寺開基の墓

 心行寺開基たる岩国城主吉川監物の室養源院殿のお墓です。何の目印もないので、長嶺さんの案内がなければ見落としてしまうところでした。

 ちなみに吉川監物は、毛利家と縁続きの幕末の大名です。禁門の変は毛利家の三奉行が独断で行ったことだとして三奉行を切腹させ、毛利宗家を守ったことで知られております。彼の行動は、幕末史に大きな影響を及ぼしたと評価されています。