JR市川駅北口を出て、真間山弘法寺の参道を北に向かいます。門前町の面影の残る真間大門商店街をしばし歩くと真間川を越えます。その一寸先に、真間の継橋があります。
「足(あ)の音せず行かむ駒もが葛飾の真間の継橋やまず通わむ。」
(万葉集東歌)
万葉の昔から、この一帯は「真間の入江」と呼ばれる海岸地帯で、蘆の生い茂った砂州が広がっていました。真間の継橋は、砂州から複数の板橋を架け渡して下総の国府のあった国府台へ向かうための橋であったため、この名を得たとされています。
広重も名所江戸百景の中で「真間の紅葉手古那の社つぎ橋」と題する一枚を描いています。
次の2枚の写真の内左側のものは大正5年以前に写されたもの、右側のものは大正~昭和初期の間に写されたものです。
この頃までは、昔とあまり変わらないのどかな風景が広がっていたことが分かります。
それが今では川は枯れ、観光客向けの擬宝珠つきの真っ赤な欄干が参道をまたいでいます。
この継橋の直ぐ先に手児奈霊神堂があります。
身なりは粗末だったが、美しい手児奈。多くの男性から求婚され、「私の心は幾つにでも分けられますが、身体は一つしかありません。誰かのお嫁さんになれば、他の人を不幸にしてしまいます。」と悩み、海に身投げしてしまったとの伝説に包まれた美女です。
この霊神堂は、手児奈を祀っています。
霊神堂というから神社かと思いましたが、真間山弘法寺の院内寺院のようです。でも境内には稲荷神社が建っています。
明治になるまでは、神仏混交が日本の伝統でしたので、お寺と神社が共生していても何も問題がないのでしょう。
境内の池では、仏の化身か神の使いか分かりませんが、亀さんたちが「どっちでもいいよ」とばかり、のんびり日向ぼっこを楽しんでいました。
次回は、亀さんたちに別れを告げて、真間山弘法寺の山門を潜ります。