帝釈天から賑やかな参道を西へ向かいます。

    帝釈天参道

京成線の線路を越えると柴又八幡神社が見えてきます。創建年代は不詳ですが、別当寺である真勝院の創建が大同9年(806年)と言われているので、相当古い神社であることは間違いありません。鳥居から拝殿を眺めた限りでは何の変哲もない神社に思えますが、実はこの神社は古墳の上に建てられているのです。

    八幡神社鳥居

 南側の鳥居から拝殿を眺めただけでは平坦な感じですが、東側から見ると敷地が一段と高くなっていて「言われてみれば、なるほど」と納得がいくかもしれません。

    八幡神社社殿    八幡神社社殿裏

 1919年(大正8年)頃の古写真を見ると一層わかりやすいと思います。

    八幡神社古写真

 この2枚の写真の内、右側の写真は、石室を写したものです。

 この神社では古くから石組みが露呈し、かねてからこれは古墳ではないかと言われており、1975年(昭和40年)の社殿改修の際、房州石を用いた石室、副葬品の馬具、埴輪片などが見つかり、古墳であることが確認されました。

 さて、この古墳が広く知られるようになったきっかけは、2002年(平成14年)、古墳周囲に掘られた溝から寅さん埴輪が出土したことでした。

    寅さん埴輪①

 この発掘の際、古墳が前方後円墳であること、埴輪は朝鮮半島の影響がうかがえる6世紀末から7世紀初頭に作られたものであることも判明しました。

 実は寅さんは、埴輪で発見されただけではありませんでした。正倉院に保存されている「下総国葛飾郡大嶋郷」の戸籍(721年(養老5年))から注目すべき戸籍が見つかっています。

    大島郷戸籍

大嶋郡は、今の葛飾区柴又・江戸川区小岩地域に当たり、その内の島俣里(柴又)には当時42戸370人程が暮らしていたといわれています。葛飾区郷土と天文の博物館に、当時の暮らしぶりを再現した復元模型があります。

    大嶋郷模型

 ここで暮らしていた人々は、殆どが孔王部(あなほべ)姓なのですが、名前が「刀良」(とら)と記載されている人が7名、「佐久良売」(さくらめ)と記載されている人が2名いたのです。

寅さん埴輪発見の報に山田洋次監督は、「何たる偶然かと苦笑したものですが、寅さんと同じ帽子をかぶった珍しい埴輪が発掘され、顔つきがどことなく似ている上に、その日は渥美清さんの命日だったことを知って驚きました。僕は霊魂なんて信じない人間ですが、はるか昔、万葉の時代に生きていたトラさんという強烈な個性の持ち主が寅さんを主人公にした映画を作らせたのかもしれませんね。もしかして」と、その驚きを語っています。

1500年程の時を経て、国民的大スターとして蘇った寅さん。フーテンの寅さんに対して、埴輪の寅さんは首長だとみられています。どうみても共通点はなさそうですが、1500年前の大嶋郷の7名もいたといわれる寅さんの中には、あの寅さんを彷彿とさせる好人物がいたに違いありません。そして、兄貴思いの「さくら」も。

 しばし、古代の夢に浸った後は、中小企業家同友会葛飾支部会員の川魚料理の「えびす家」で、大好物のうな重に舌鼓を打ちました。

    えびす家    料亭えびす家

 今年の秋、墨田支部の遊ぶ会で訪れる予定です。私の場合は食堂でしたが、遊ぶ会御一行様の場合は、隣の料亭で庭園を眺めながらうなぎを堪能できるはずです。