鷺沼御旅館探訪は、鷺沼城址公園から始めることにします。習志野市役所から菊田遊歩道を南側に600メートル余り歩きます。

  菊田遊歩道

遊歩道から東側に20メートルほどの高さの丘を登ると、公園に出ます。するとコンクリート製の小屋や馬の埴輪のレプリカが目に飛び込んできます。

  馬埴輪  B古墳  DSCN2414

小屋の中を覗くと石棺があります。鷺沼古墳群B号墳の石棺で、凝灰岩でできています。

  B古墳内部

その隣には「鷺沼源太満義諸武士之碑」があります。

何処にでもある公園ではないただならぬ雰囲気が漂っています。

ここが鷺沼御旅館の本命かと色めき立ちましたが、石碑は戦国時代のいわゆる第二国府台戦争に参戦した武将のもののようです。鷺沼御旅館とは関係がありません。

  鷺沼源太石碑

この石碑の奥に踏み込んでいくと、ややこんもりした場所があります。A号墳です。

  DSCN2413  DSCN2412

いかにも歴史のゆかりの地といった雰囲気と、古代駅路の傍らに有力な豪族の古墳があることが多いこと等からすると、ここが鷺沼御旅館の故地ではないかと思いたくなります。

そんな思いを吹っ切って、葛飾区柴又の「鷺沼」を訪ねることにしました。目標は、柴又2丁目古録天神社です。

大正2年の古地図では、確かに国分道が柴又から新宿(にいじゅく)へ東西に延びています。

中小企業家同友会の仲間がお付き合い下さり、京成柴又駅から西へ伸びている比較的太い道路を国分道と思い定めて歩き始めました。国分道の南側に「鷺沼」地区があり、その一角に古録天神社が鎮座されている筈です。

しかし、歩き始めた道は国分道と違うようです。ままよ、と古地図を頼りに適当なところで右折してみましたが、この辺の道路は碁盤の目にはなっていません。一体どこを歩いているのか分からないまま、ふらふら歩き回っているうちに、古録天神社の前に出てしまいました。

  古録天神

小さな何の変哲もない神社です。この神社の石碑の裏側に回ると、「古ヨリ鷺沼と称シ」との記載があり、この地域が昔「鷺沼」といわれていたことがわかります。

  古録天神石碑裏

  この地は東西に発達した微高地で、新宿(にいじゅく)から矢切の渡しを経て下総国府や国分寺と連絡する国分道が貫通していた場所でもあります。

鷺沼城址公園と比べると、それらしさには欠けますが、この地も古来人の行き来が盛んであった場所には間違いありません。

葛飾区郷土と天文の博物館発行の「秩父平氏葛西清重とその時代」のパンフレットに国分道の現在を撮影した写真が掲載されています。この撮影地点は、この場所から遠くないはずです。パンフレット片手に仲間と神社の周辺を歩き回り、「この道こそ頼朝の大軍が通った道に違いない。」と勝手に想像しながら撮った一枚を、紹介させていただきます。

  国分道②  国分道

さて、肝心な鷺沼御旅館所在地の確定です。

  残念ながら、B級歴史探偵の私に鷺沼御旅館所在地を同定するだけの能力

がありません。しかし、隅田川付近にまで辿り着きながら習志野まで戻ったと

いうのは何としても解せませんし、歴史の現場は、ありふれた場所であった方

が却って身近に感じられます。それに、何より下町を愛する私にとって、断固

柴又の鷺沼であって欲しいのです。

以上、理由のあるような、ないようなあいまいな話で恐縮ですが、私は、柴

又の鷺沼説を信じたいと思います。

次回は、いよいよ肝心な葛西清重が登場します。