鎌倉仏教を代表する高僧として、また浄土真宗の開祖として高名な親鸞は、承安3年(1173年)、日野有範の子として誕生したと言われています。比叡山の学僧として学び、建仁元年(1201年)、29歳の時、法然の弟子となりました。師の阿弥陀仏の名を称える専修念仏により極楽浄土に往生できる、という他力本願の教えをさらに深めて、煩悩の多い人こそ阿弥陀仏が救おうと手を差し伸べているという悪人正機説を説き、下級武士・農民や商人の間にその教えが広がりました。
ここに掲げてあるのは、台東区上野の報恩寺(通称坂東報恩寺)に伝来した坂東本教行信証真筆で、国宝とされている浄土真宗の根本経典です。現在京都博物館に預託されています。
歎異抄は、親鸞没後、弟子の唯円が師の教えと異なった教えが広まっているのを悲しんで書いたものといわれ、ここに掲げてあるのは、西本願寺所蔵の蓮如(1415~1499年)による写本で、最も古いものといわれています。
法然や親鸞の教えの広まりは、旧来の仏教から警戒感を抱かれ、それを代表する南都仏教の興福寺などから糾弾を受けることになりました。そして、建永2年(1207年)の法難によって、法然は土佐国へ、親鸞は越後国国府に流罪とされてしまいました。親鸞は、建暦元年(1211年)放免となりましたが、そのまま京には戻らず、健保2年(1214年)関東へ向けて旅立つことになりました。時に親鸞42歳、33歳の妻恵信尼と子供たちを連れての旅立ちでした。
関東に赴いた親鸞は、常陸国を中心に21年間布教を行いました。茨城県下妻市の光明寺に伝わる「親鸞門侶交名牒」をみると、常陸国だけでなく下総、下野、武蔵など関東各地に弟子がいたことが判明します。
残念ながら、それらの足跡を示す資料の多くは、中世の戦乱や為政者の宗教政策などによって失われてしまっています。
この絵画は、西本願寺所蔵の「親鸞聖人安城御影」と題された国宝で、親鸞83歳の姿を描いたとされています。この像の右下に奇妙な形をした杖が描かれていますが、これは「鹿杖(かせづえ)」とか「またふり」といわれる杖で、親鸞の関東布教に勤しむ記憶が描きこまれているといわれています。
このようなかすかな記憶以外で残されたものは、語り継がれた親鸞伝説だけでした。ここにいち早く注目した人が、江戸末期の江戸小日向の廓然寺(浄土真宗)住職、十方庵敬順でした。敬順は、「遊歴雑記」において、他宗門であるにもかかわらず浄土真宗関連の法会を行っているお寺として、葛西地域では光増寺、四つ木西光寺、宝町西光寺、明福寺の四ヶ寺を取り上げて、これら寺院に残る親鸞や浄土真宗に縁のある由緒を列記しています。
これから、この四ヶ寺を巡ります。