葛西地域の親鸞伝説のキーワードが葛西清重と雨です。

 葛西清重は、既に取り上げた人物です。清重が葛西渋江村(現在の葛飾区四つ木)に隠居していた頃、関東を訪れていた親鸞が清重の館を訪れたそうです。長雨により逗留が53日に及び、この間、清重は西光坊善慶と称して親鸞の弟子になったと伝わります。

 親鸞が清重のために阿弥陀如来の画像を書き与えたところ、清重は、これを喜び草庵を西光寺に改め、この阿弥陀如来像を本尊として日夜崇拝した。親鸞の逗留中長雨が続いたので、山号を雨降山と名付けたところ、近隣が水害に見舞われる原因は、雨降山という山号にあると言われて、やむを得ず超越山に改めた。こんな謂れが伝わるお寺が、嘉禄元年(1225年)創立の四つ木の西光寺です。

  西光寺

 その後、このお寺は、永禄7年(1564年)の第二次国府台合戦や度重なる水害で無住の寺になり果てましたが、寛永年間(1624~44年)天台宗のお寺として再興され、現在に至ります。四つ木の西光寺は第84回で取り上げておりますので、紹介はこの程度にしておきます。

 次に訪ねたお寺が、葛飾区宝町の西光寺です。

 このお寺も、なぜか浄土真宗ではなくて真言宗豊山派のお寺で、渋江山清重院と号します。

やはり清重の草庵が始まりで、元仁元年(1224年)創立といわれ、当初は浄土真宗の一寺でしたが、慶長18年(1613年)に再興されて真言宗のお寺となりました。

  西光寺山門(宝町)   西光寺(宝町)本堂

このお寺にも、四つ木西光寺とそっくりの謂れが伝えられています。親鸞が清重の草庵に立ち寄ったところ、長雨により53日間逗留することになりました。その際、この寺の住職が親鸞に阿弥陀如来の画像を描いてほしいと願い出たため、阿弥陀如来の画像を描き与えたというのです。

 このお寺には、親鸞が袈裟をかけたと伝えられている袈裟掛けの松があります。但し、現在の松は三代目だそうです。

  西光寺(宝町)袈裟掛け松   西光寺(宝町)袈裟掛け②

 三番目に訪ねたお寺は、葛飾区東金町の浄土宗摂取山蓮池院光増寺です。貞応元年(1222年)、法海が庵を結んだのが始まりで、元仁元年(1224年)、親鸞が常陸国稲田(茨城県笠間市)から3人の弟子とともに清重の館に向かう途中、五月雨をしのぐため法海の草庵を訪れたことがきっかけとなり、法海が親鸞の弟子になり、随信坊と名乗ったと伝わります。縁起には、貞永元年(1232年)、親鸞は再度当寺を訪れ、光増寺の名を授け、阿弥陀如来画像を与えたと記されています。

 戦国時代、永禄7年(1564年)1月の第二次国府台戦争の兵火に焼かれ、一時荒廃しましたが、天正10年(1582年)、浄土宗の寺として再興されました。

  光増寺山門   光増寺本堂

 江戸時代は、水戸徳川家の立ち寄り所となったことから、徳川の紋所が許されました。

  光増寺扉

 この地の30メートルほど南側に、江戸時代、坂東三十三観音霊場第12番札所として有名であった岩槻慈恩寺の参詣道であった岩槻慈恩寺道がありました。

  光増寺道標   光増寺道標説明

 舟形地蔵と呼ばれるこの地蔵さまは、岩槻慈恩寺道の道標として設置されたものでした。