葛飾区青戸には、御殿山と呼ばれる二本の大銀杏が茂る小高い場所があり、そこには、かって将軍家の青戸御殿が設けられていました。この御殿、家康・秀忠・家光の徳川三代の鷹狩のための御殿でした。その後民間に払い下げられ、いつしか畑になってしまいました。今では、御殿取り壊し後の御殿周辺の風景を描いた古城蹟目撃図「新編武蔵風土記稿」で、昔をしのぶしかありません。
この御殿山、1961年頃までは弥生時代後期の遺跡として認識されていました。ところが1960年代に環状7号線の建設計画が持ち上がり、1972年から6次にわたる調査が行われた結果、この一帯が中世の葛西城跡であったことが明らかになりました。
現在、跡地の御殿山公園には「葛西城を偲ぶ」の碑が残されていますが、その殆どは埋め戻され、環状7号線の敷地となってしまいました。
御殿山公園と環状7号線を挟んだ反対の東側には葛西城跡公園が設けられています。公園に足を踏み入れてみると、パラパラと遊具が設置してあるだけで、お城を偲ぶものとて何もなく、拍子抜けしてしまいます。
それにしても、この二つの公園だけで葛西城を想像することはできません。そ
の範囲は、環状7号線の両側に広がる広大なものだったのです。
それはそれとして、今回取り上げるのは、発掘された戦国時代の葛西城を巡る攻防の歴史です。
葛西城発掘調査によって発掘された歴史的遺物は、葛飾区立郷土と天文博物館に展示されていますので、おいおい紹介させていただきます。ここでは、葛西城の復元想像図だけ紹介させていただきます。
お城というと、天守閣と石垣で造られた姫路城を思い浮かべる方が多いと思いますが、戦国時代はそのようなお城は存在しませんでした。
享徳3年(1454年)、第5代鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を殺害したことが発端となって、鎌倉公方足利成氏と上杉氏・足利幕府方との間で、関東の諸武士団を巻き込んだ30年続く享徳の大乱が始まりました。
大乱の始まった頃、上杉方の拠点として造られたのが葛西城の最初の城主は、山内大杉氏の守護代大石氏でした。大石氏は、太田道灌とともに、鎌倉公方足利成氏の動きをけん制していました。一方、足利成氏は、大乱の攻防の中で次第に劣勢になる中で鎌倉から味方の多い古河に本拠を移しました。
以後、鎌倉公方は古河公方と呼ばれて百数十年、東国における一方の旗頭として君臨し続けることになりました。
大乱の中で葛西城の東隣の千葉氏が古河公方に味方すると、この城は上杉氏の対千葉氏の最前線基地となって、度々敵の攻撃にさらされることになりました。
しかし、これは葛西城の苦難の歴史のスタートにすぎません。その後も度々戦乱に巻き込まれます。
文明8年(1476年)の山内上杉氏内部の反乱(長尾景春の乱)、文明18年(1486年)の扇谷上杉定正による家宰太田道灌謀殺による混乱、長享元年(1487年)から永正2年(1505年)にかけての山内上杉顕定と扇谷上杉定正との間の長享の乱と果てしのない戦乱に翻弄され続けることになったのです。