永禄7年(1564年)1月7~8日にかけて、北条氏と里見氏、岩付太田氏、江戸太田氏の連合軍との間で戦われた第2次国府台戦争が勃発しました。

 里見軍が北条方の籠る葛西城を攻撃したのが戦いの端緒になったといわれています。しかし、主に戦いが行われたのは、当時の太日川と呼ばれていた江戸川の東側で、里見義弘は、国府台に8,000人の軍勢で陣を構え、20,000人の北条氏康率いる軍勢を迎え撃ちました。

 1月7日の戦いでは里見方が大勝しましたが、翌8日に勝利に酔いしれる里見方に夜襲をかけた北条氏が勝利しました。

 この戦いの主な舞台になったのが、矢切台。矢切の渡しの東側に広がる台地です。

  矢切台望む

この古戦場は、現在西蓮寺となっており、野菊の墓文学碑があります。

  野菊の墓①   野菊の墓②

 

 第2次国府台戦争で里見方は5,000名の戦死者を出す大敗を喫しましたが、その古戦場は長らく忘れ去られていました。

 文政12年(1829年)になって里見公園内に里見諸士軍亡塚と里見諸将霊墓が建てられました。写真左側が里見諸士軍亡塚、中央が里見諸将霊墓、右側が里見広次公廟です。

  里見石碑

 3つ並んだ石碑のそばに夜泣き石があります。

  夜泣石

 第2次国府台戦争で戦死した里見広次(弘次ともいう)の当時12~3歳の末娘が、父の霊を弔おうと安房の国から国府台の戦場に辿り着きました。そして余りに凄惨な戦場を見て恐怖と悲しみに打ちひしがれて、傍らにあった石にもたれて泣き続け、ついには死んでしまいました。

 それ以来、毎夜その石から悲しい鳴き声が聞こえるようになり、いつしか里人はその石を夜泣き石と語り継ぐようになっていた。

 そんなある日一人の武士が通りかかり、哀れな娘の供養をしたところ、鳴き声が聞こえなくなったと言います。

 大変悲しいお話ですが、里見広次は当時15歳の初陣で、とても12~3歳の娘のいるような歳ではありませんでした。

 それでは、どうしてこんなお話が広く伝わってしまったのでしょうか?

 かって夜泣き石は、里見広次公廟とともに近くの明戸古墳のそばに設置されていたことから、里見広次にまつわる伝説として語り伝えられたのではないかといわれています。

 因みに明戸古墳は、6世紀後半から7世紀初頭にかけて作られた豪族の前方後円墳とされており、今も石棺が残されています。

  明戸古墳③   明戸古墳石棺①

 とにもかくにも、里見氏に関わる石碑や夜泣き石が、戦から200年以上も経ってから建てられたようで、日本人の判官びいきの一典型といえるかもしれません。

 北条氏は、この里見氏とその後も攻防を繰り返し、その攻防は天正5年11月(1577年)に和睦が成立するまで続くことになりました。