四十七士側は、討ち入りを成功させるため、吉良屋敷周辺に何か所かに分かれて暮らし、討ち入りの機会を窺っていました。

今回は、そんな四十七士の仮住まいだった場所を訪ねます。

<前原伊助の仮住まい>

前原は、「米屋五兵衛」と称して本所相生町二丁目に店を構え、上野介に関する情報収集に努めました。財政に明るかったので、商人に扮するのは容易だったのかもしれません。

   前原伊助

討ち入り当日、吉良邸で開かれた茶会の客が引き上げたことや、上野介が外出していないことを、内蔵助に報告して討ち入り成功に貢献しました。

前原の住居跡は馬車通り沿いにあり、吉良屋敷裏門から、僅か10~20メートルしか離れていません。

   前原伊助宅跡

こんな近くに隠れ住んでも気づかれなかったのは、前原が変装の名人だったからと言われています。

 <杉野十平次の仮住まい>

杉野は、「夜泣き蕎麦屋の十助」として本所徳衛門町一丁目の借家に仮住まいしながら、吉良邸の動向を探っていました。

   杉野十平次

武林唯七、勝田新左衛門も同居していました。その場所は、堅川沿いの元徳稲荷神社周辺と考えられています。

   元徳稲荷

 <堀部安兵衛の仮住まい>

 堀部安兵衛と言えば、高田馬場での助太刀が有名です。

   堀部安兵衛

内蔵助をはじめとする多くの家臣が望んでいたのは、内匠頭の連座で閉門を命じられていた内匠頭の弟浅野大学が浅野家を継ぐことで、当初の浅野家再興の義盟の参加者は120名に達しました。

他方、堀部安兵衛、大高源吾らは亡君の恨みを晴らすには上野介の首を取るしかしかないと考え、浅野家再興は眼中にありませんでした。彼らは、後世の名誉というより武士としての筋を通すことを第一とし、上野介に何らかの処分が与えられなければ浅野家再興がなっても意味はないと考えていたのです。

このような中で、元禄14年12月11日、上野介の隠居と義周の吉良家相続が認められ、上野介が処罰される可能性がなくなりました。次いで、元禄15年7月18日、浅野大学が広島藩差し置きとなり、浅野家再興の望みは完全に断たれてしまいました。

討ち入り決行まで、堀部安兵衛ら強硬派と内蔵助らの多数派との間に様々な確執がありましたが、浅野家再興の夢が断ち切られて、内蔵助も討ち入りを決断するに至ったのです。

さて、浅野家再興の夢が断ち切られたということは、再士官の望みが絶たれたことを意味し、この時点で脱落者が続出しました。その中には堀部安兵衛宅に寝泊まりしていた毛利子平太、小山庄左衛門らもいました。彼らが脱落した原因には、安兵衛の独善的な押し付けがましさを挙げる向きもあります。

いずれにせよ、安兵衛は理屈っぽい堅物であり、余り親しみやすい人柄でなかったようです。

肝心な安兵衛の仮住まいの場所のことです。本所林町五丁目にあり、倉橋伝助、横川勘平、木村岡右衛門らも同居していました。その場所は、立川第二児童遊園辺りとされています。この公園は最近安兵衛公園に衣替えして、江戸情緒一杯のトイレが建てられました。

   安兵衛公園①    DSCN2932 

安兵衛の仮宅は討ち入り当日、最後の集合場所となりました。

ここで、浪士らの仮住まいの場所の特徴を見ておきたいと思います。

下の地図は、嘉永4年(1851年)に作成されたものなので、討ち入りから150年ほど後のものです。ですが、前原伊助・杉野十平次・堀部安兵衛らが仮住まいしていた当時と武家地と町屋の地区割りは概ね変わっていなかったと思われます。この地図の中央を流れているのが堅川で、その両岸に細長く「・・・町・・丁目」とあるのが町民居住地域で、赤のマーカーで囲っておきました。江戸の武士と町民の人口比率はほぼ半々だったにもかかわらず、町人は猫の額のような狭い場所に押し込まれていたのです。この地図を見ただけでも、この時代が侍の天下の時代であったことがよく分かります。

 

     DSCN3029