今回は、その他のゆかりの地を訪ねます。
<大高源吾句碑>
大高源吾は、内蔵助に最も信頼された人物で、当時の俳諧の第一人者宝井其角とも親交がありました。和歌や国文の素養もあり、茶道にも堪能でした。茶人山田宗偏の門に入り、吉良家の茶会を通じて上野介の在邸日を確かめることに成功し、討ち入り成功の立役者の一人になりました。
両国橋の東側の袂に大高源吾の「日の恩や たちまち砕く 厚氷」の句碑があります。
この句は大高源吾の辞世の句との説もあるようです。討ち入りの前日、煤竹売りに身をやつした源吾が両国橋の袂で其角と会った際に、仇討が皆様の陰で成就できるとの喜びの声を句に託したとするのです。
しかし、討ち入り前日にそのようなやり取りをする余裕があったとは思えません。この話は、其角が討ち入り後、赤穂浪士との密接な関係を誇示するための作話とする説が有力です。
そうすると其角の句ということになってしまいます。
それは兎に角、源吾には「梅で呑む茶屋もあるべし死出の山」との有名な辞世の句があります。梅の時期の2月4日に切腹となったことを踏まえた句で、さすが俳人と思わせるものがあります。
<浅野家蔵屋敷跡>
元禄10年(1697年)、浅野家赤坂屋敷3,000坪は、1,000坪余を残して本所屋敷3,900坪に替地され、浅野家は、この地を倉庫や畑に使用していました。刃傷事件後、浅野家の家財道具は一時この屋敷に運び込まれていました。
その跡地は、私の母校両国高校になっています。
ぼんやりしていた私は、恥ずかしながら在学当時このことは全く知らず、井上ひさしの「不忠臣蔵」を読んでこのことを初めて知りました。
<回向院>
諸宗山無縁寺回向院が正式名称です。振袖火事で知られる明暦の大火(1657年)での死者108,000人を葬った万人塚がその起源で、将軍家綱の命により建立されました。
四十七士は、上野介の首をとって、まず回向院に向かいました。しかし、住職は血だらけの浪士を見て、関りになるのを恐れ、「お寺の決まりにより暮れ六つから明け六つまでは、檀家の人以外は入れません。」と入山を拒否しました。
これだけ忠臣蔵が有名になると分かっていたらもう少し親切にすべきだったと地団太を踏んだに違いありません。
結局四十七士は、ここで休むことなく、永代橋を経て泉岳寺に向かうことになりました。