今回は、戦後に発展した玉ノ井を訪ねます。旧玉ノ井は、1945年3月10日の東京大空襲で全焼し、壊滅状態になりました。
しかし、逞しいというべきか、その直後から、いろは通りの北側、現在の墨田三~四丁目あたりの非罹災地では、罹災娼婦を吸収して営業を始めるところも出てきました。新玉ノ井の始まりです。
新玉ノ井の私娼街は、吉原や新宿と比べて玉代が安かったと言われています。
戦後の玉ノ井について、前田豊は、ラビラントもなくなり、場所も商店街の殺風景な裏通りで、オートバイやトラックも通り、色町の雰囲気などみじんも感じられぬ非情緒的町であったと冷めた言い方をしています。
この玉ノ井は、戦前の玉ノ井と比べるとその営業期間が短いため、存在感では今一つなのかもしれません。
その代り、戦災を免れた場所に開かれた街であったため、かっての娼家の建物が今も残っているとの期待を持たせてくれる街なのです。期待に胸を膨らませながら、今の墨田三~四丁目あたりいろは通りに足を踏み入れてみました。
やみくもに足を踏み入れてみたものの、目当てもないまま歩き回るだけでは、かっての玉ノ井の痕跡を探し当てることはできません。
とりあえず、いろは通りから北側に少し入ったところにあり、濹東綺譚にも取り上げられている曹洞宗東清寺を訪ねることにしました。境内には、玉ノ井稲荷もあります。
玉ノ井稲は、濹東綺譚で、「わたくしはお雪の話からこの稲荷の縁日は月の二日と二〇日の両日であることや、縁日の晩は外ばかり賑やかで、路地の中は帰って客足が少ないところから、窓の女たちは貧乏稲荷とよんでいる事などを思い出し」と散々に書かれています。そんな東清寺・玉ノ井稲荷も、今ではモダンなお寺に生まれ変わっています。
東清寺の入り口のところに、「あずま寿司」があります。
まだ私娼街の雰囲気が色濃く残っていた頃から、お店を構えてきた玉ノ井の名店です。
実はここの女将さん、私の元依頼者です。
寿司でもつまみながら痕跡探しの作戦を練ろうと、暖簾をくぐりました。寿司に舌鼓を打っていると、女将さんが、もう一人の元依頼者の高橋さんを呼んでくれました。高橋さんと旧交を温めた後に、あずま寿司の入り口で記念写真をパチリと撮らしてもらいました。
女将さんに、「昔の玉ノ井の面影が残るような建物を探しに来たんですけども、さっぱり見つかりません。」と愚痴り、「どこかにかっての玉ノ井を思い起こさせる建物が残っていませんか?」と尋ねると、「お安い御用」と、かっての娼家の建物を見に連れて行ってくれました。
もちろん戦後の玉ノ井の娼家跡です。小さな路地を入ったところに、原色の色使いの建物、一般民家には見られない独特の曲線に縁どられた建物が残されているのを見ると、ここは娼家跡だったのだと納得させられました。
ついでに、女将さんの写真もパチリと一枚撮らせてもらいました。
あずま寿司のすぐそばに中華料理の「宝来飯店」があります。
偶然ではありますが、ここの店主千々岩君は、私の江戸川区立松江三中の同級生で、「あずま寿司」の常連さんです。
下町探訪をしていると、こんな偶然に出会えるのです。下町探訪の余禄に思わず頬が緩みました。