清澄通りを、南側に森下方面に歩き、角をちょっと左に曲がると弥勒寺があります。真言宗豊山派関東四ヶ寺の一つとして、法恩寺と同様に触頭(ふれがしら)を勤めた大寺でした。安政大地震までは塔頭6ヶ寺、及び、多数の末寺を有していたと言われています。残念ながら、現在では何の変哲もない小さなお寺にしか見えません。

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 この寺が「お熊と茂平」の舞台です。

「間もなく庭先へあらわれた老婆は、まさに、弥勒寺前で〔笹や〕という茶店を出しているお熊婆あであった。婆さん、七十をこえた傘の骨のように痩せた躰をしゃきしゃきと運んで来て、「おい、銕つあん。むかしなじみの、このお熊を庭先に通すとは、あまりにむごい仕うちじゃねえかよ。むかし、お前さんが勘当同様になって屋敷を飛び出し本所・深川をごろまいていたころには、毎日のように酒をのませたり、泊めてやったりしたのを忘れたのかえ。」と啖呵を切ったものの鬼平の奥方久栄に、「さ、お熊さん。こちらへあがって、お茶をおあがりなさい。」と声を掛けられ、お熊は目を白黒させるばかり。

「お熊婆あが長谷川平蔵に語ったのは、およそ、つぎのようなことであった。お熊の茶店の真前にある弥勒寺の下男で、茂平という老爺は、お熊よりも十も年下だが、そこは、(年よりどうし・・・)のことで、それに、寺の門前を掃除している茂平が、いかにも温和しやかで、ものしずかなのを、「私や、すっかり気に入っちまってね」と、お熊が、「まあ、ちょいと寄って、茶でも飲んでいきな」茂平をさそっては、「一文もとらずに、茶を飲ませたり、饅頭えお食わせたりしてやったものだ。そうしたこともあったからだろうか・・・昨夜、急に発病し、早くも明け方に死んでしまった茂平が、息絶えなんとするとき、「前の、茶店の、お熊さんを、呼んでくださいまし」と弥勒寺の僧にたのんだ。」「お熊と茂平」(十)

ドラマでお熊婆あを演じたのが、北林谷栄です。これ以上にないはまり役でした。

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 弥勒寺に狙いを定めた盗賊今市の右十衛門一味の陰謀を見破った鬼平は、手入れを行い、十右衛門一味を逮捕しました。

ここまでのくだりは良いのですが、「畳屋・庄八を、召し捕り、泥を吐かぬときは責めにかけ、庄八の白状をもとに、やつどもの本拠をつきとめ、こちらから打ち込むか・・・」「畳屋の庄八夫婦は、相当の拷問にも耐え、口を開かなかった。」「よし。では、奥の手を出して、強く責めて見よ。」「お熊と茂平」(十)

 となってくると、「池波先生、史実と違うのではないでしょうか?」と文句をつけたくなってしまいます。

 鬼平犯科帳には、「かまわぬから、手足の爪へ針を刺し込み、熱い蠟でもたらしこんでやれ。さ、いけ。一刻も猶予がならんぞ。行け、行けい。」「流星」(八)といった、もっと強烈なくだりまであります。

 鬼平の魅力は、弱きを助け、悪をくじくところにあります。ですから、「悪人から自白を引き出す拷問も、鬼平の大きな魅力の一つなんだよ!」等と言われると困ってしまうのですが、弁護士の立場では、このような鬼平を無批判に賛美するわけにはいきません。

 皆さんは、意外に思われるかもしれませんが、江戸時代でも拷問は極めて稀にしか行われていなかったようです。しかも、原則全て江戸町奉行の所管でしたので、寺社奉行、勘定奉行なども、審理中の容疑者の拷問は町奉行に依頼していたと言われています。また、四種類の拷問の内、笞打(むちうち)、石抱、海老責までは町奉行の権限でできましたが、それ以上の釣責となると老中の許可がなければできないとされていました。

 当時の裁判は、原則として自白裁判で、自白がない限り、明白な証拠があっても有罪とできませんでした。そのため、自白を得るための拷問が認められていたのですが、それが認められるのは、明白な証拠が揃っている場合に限られていました。

 ですから、岡っ引き等が、鬼平の命令のままにホイホイと拷問をするなどありえなかったのです。

 ここで、「火付盗賊改」の仕事の範囲に触れておきます。「火付盗賊改」は、「町人、百姓、無宿の犯罪を扱い、それ以外では下級武士の現行犯だけを取り締まることができ、逮捕した容疑者を町奉行に引き渡すまでが本来の職責とされていました。

 ところが、いつしか「火付盗賊改」が犯人を吟味(審理)し、責問(拷問)し、刑を申渡(判決)し、仕置(行刑)することまで、即ち、警察、検察、裁判所、刑務所の領域まで担当するようになってきました。

 しかし、本来武人である「火付盗賊改」の審理は、素人臭く、粗野だったので、「町奉行、勘定奉行は大芝居。火付盗賊改は乞食芝居。」と侮られていました。

 火付盗賊改方の捜査手法は乱暴であり、誤認逮捕や冤罪が絶えなかったようです。ですから、一昔前の刑事ドラマで刑事が自白しない容疑者に殴る蹴るの暴力を振るっていたように、火付盗賊改方配下の岡っ引き等が、本来してはならない拷問まがいの暴力を振るっていた可能性は否定できません。

 このように、江戸時代においても、拷問は厳しい条件の下でのみ認められており、拷問をせざるを得ないのは、取り調べの担当者の腕が悪いからと考えられていました。

 この点からしても、庶民の心情に通じていた鬼平が、自らの無能を白状するに等しい拷問を多用していたとは考えられません。鬼平ならば、容疑者の琴線に触れる取り調べをし、拷問に至る前に自白を引き出していたはずなのです。

                                                 つづく