鬼平は、今見てきたような「火付盗賊改」の悪評を見事に跳ね返してしまいました。今回は、その秘密を探ってみます。
まず、第一番目に目に付くのが、庶民への気配りです。
松平定信の側近の水野為長が、幕府探索報告書として、諸役人の仕事振りや評判等を聞き集めた膨大な諜報記録「よしの冊子」に、鬼平についての次のようなエピソードが残されています。
「与力同心へも酒食などを与え喜ばせ、又夜中など囚人を町人などが連れて参り候へば早速受け取らせ、そばなど申し付け右振る廻る候よし。・・・町人は御馳走の気に相成り恐れ入り有難り候由。いずれ此の節は長谷川の方評判宜しく。」
「長谷川、浅草観音或いは外々寺社などへ参り候ても、小銭を持たせ参り、非人乞食に銭を遣わし候由。右故長谷川は御仕置筋には手強いが、又慈悲も能くする人じゃと一統評判宜しく御ざ候よし。」 部下、犯罪者逮捕への協力者や非人乞食にまで気配りをしていたというのです。
また、命より大切とされていた十手を盗まれたと届け出たと申し出た者に対し、「盗まれたは仕方がない。人に取られても多勢に無勢ならば、取られまいとも言われぬ。」としかり飛ばすどころか、笑い飛ばしたとあります。
これら以外にも、「所々の寺院に墓塔を建立して、刑死の菩提を弔い、道橋に菰かぶり居る乞食なんどに、折々鳥目(銭)を与えて、恵みなんどしけるとぞ。」(蜑の焼藻の記)「平蔵、常に囚徒を遇すること親切にして恩あり。其衣なき物には衣を与え、又捕違ひにて放免するもの、極めて貧なるには、拘留の日数に応じて銭を与ふ。」(江戸会誌)といった記載も残されています。
身分制度が厳しかった時代の鬼平の罪人等に対する人情溢れる振る舞いは、当時としては、まさに型破りな行動だったに違いありません。
池波正太郎は、鬼平を「江戸市中を引き回しの上、首を切られることになった前夜、長谷川平蔵は伏屋の紋蔵を牢番小屋へ引き出し、特別の夕飯と酒をふるまってやった。本所の五鉄から取り寄せた軍鶏鍋に、熱い酒と飯、蜜柑を三個。・・・『どうだ、うまかったか?』『かたじけのうございました』紋蔵は落ち着き払っていた。人相がまるで変り・・・」「密告」(十一)と、描いています。
また、葵の御紋の提灯を掲げて商家に押し込み強盗を行い、押し込み先の婦女を必ず強姦するという凶悪な手口で江戸中を荒らしまわった「怪盗大松五郎の逮捕劇」を下敷きにした「妖盗葵小僧」では、「葵小僧は、他に散っている一味の者や諸方の盗人宿の在処についてえ、一言も白状しようとはせぬ。そのかわり彼は、江戸市中はもとより、上方から中国すじに至るまで、これまでに押し入った先で犯した女の名をぺらぺらとしゃべった。平蔵が耳にした彼の犯行以外に、それは三十数件におよぶというすさまじさであった。」
鬼平は、この葵小僧との間で、「お前がな、油紙へ火のついたようにぺらぺらとしゃべりまくった気の毒な女たちのことは、この場かぎり、おれの胸の中へしまいこんで他にはもらさぬ。」「そ、そんなばかな・・・そ、それでも手前は御公儀の役人か、やい」「ふふん・・・」「やい。やい、この」「お前はなあ、今夜、死ぬのだ」「なに、なになになに・・・」「妖盗葵小僧」(二)と、のやり取りをした直後に、余罪の取り調べを続けず、妖盗の首をはねてしまったのです。
ろくろく裁判にもかけないで首を刎ねてしまうなど、本来ありうべからざることですが、これ以上の取り調べを続ければ、好奇の目に晒される被害者の女性たちがどんどん増えていきます。この措置は、そんな女性たちを守るためはやむを得ない、との判断の下で行われたようです。
史実によれば、老中の了解も得ていたようですので、女性の権利が殆ど認められていなかった当時の措置としては、やむを得ない行為と言えたのでしょう。
それにしても、幾ら江戸時代とはいえ、普通のお役人がすることではありません。庶民感情への気配りを第一にした鬼平らしい措置ということができます。
第二番目に挙げることができるのは、犯罪者を逮捕する場合は何よりも犯罪者を傷つけないことを心掛けていた点です。
先に引用した「よしの冊子」は、鬼平が配下の者に常々「十手は腰物同様で人を殺めぬよう抜くこと無用」と戒めていた、と伝えています。十手ですら抜くことを戒めていた鬼平です。いずれも先端に棘が植えられていて実際に使用すれば傷つけること必定だった搦めの三つ道具(写真の左から突棒・袖搦・刺股)等の使用も、殆どなかったようです。
生け捕りを目的とする召捕りに無用な人的犠牲は払わせたくないとするのが、鬼平の捕り物哲学であったようです。
ですから、「平蔵は一尺五寸の十手を思い切って投げつけたものだ。がつん・・・。すごい音がした。飛んで来た鉄の十手に頭部を打撃され、小川や梅吉は、のけぞるように転倒した。・・・こやつどもを生かしておいてはためにならぬ。刃向う者は斬れ!!と、平蔵は抜き打ちに浪人くずれ二人を、水もたまらず斬って捨てたものである。」「本所・桜屋敷」(一)
といったシーンは、鬼平ファンの一部には不満が残るかもしれませんが、池波正太郎による読者サービスのための全くのフィクションと思われます。
第三番目に挙げることができるのは、鬼平が元盗賊などの密偵を使って次々と犯罪を暴き、容疑者を追い詰めて捕まえていく過程の人情物語です。
鬼平の捜査は、ただ漫然としたものではなく、通常の旗本では見通せない悪の流通経路を、その人脈・経験・知識でもって合理的に分析し、対処するというものであり、尾行・張込・連絡(つなぎ)により得た情報の総合判断に立ったものでした。
だから、本所深川辺りの悪の巣窟や盛り場界隈にたむろする娼婦、男娼、盗賊などを密偵や密告屋として確保して情報収集を行い、物乞いなどが多い浅草観音や寺社に行くときは、小銭を持って出かけ、「金の切れ」がいい男であった。
というように、普段からまめに身銭を切って情報を収集していました。
ですから、容疑者逮捕は、大盗巨盗の拠点(盗人宿・博打宿)を突き止め、相場(両替商)八品商(質屋・古着屋・古道具屋・古書画屋・刀剣屋・時計屋・古鉄屋・紙屑屋)に目を光らせるといった鬼平流の捜査の集大成でもありました。勘に頼っているだけではなく、極めて合理的な手法を用いていたのです。
しかし、このような鬼平流捜査は、当時より、あちこちから批判を受けていました。
鬼平の後任の「火付盗賊改」であった森山孝盛は、その著書「蜑の焼藻の記」(あまのたくものき)で、鬼平について、「元来御禁制の目明し岡っ引きというものを専らつかいたるゆえに、差し掛かりたる大盗強盗なんどは、たちまち召し捕って手柄を顕したけれども、世上は却って穏やかならず。」と批判をしています。
目明し(岡っ引き)は、幕府の正式な役人ではなく、幕府の最末端で犯罪捜査の手助けをしていたに過ぎません。廻り方同心から十手を預り、同心のポケットマネーから月一分程度の僅かばかりの給金をもらっていましたが、こんなわずかな給金では探索の茶代にすらなりません。そこで、「ちょっと来い」と簡単にしょっ引いて見逃し料を取ったり、引き合い抜け(大店が面倒くさがる被害届の提出を引っ込めさせる)で金をせびる、といった行動に走ることもありました。
そのため、老中は正徳・享保頃(1710~30年代)から、頻繁に目明しの使役を禁止する通達を出していました。
それにもかかわらず、なぜ鬼平は、目明しを使い続けたのでしょうか?
「鯉肝のお里」(九)では、おまさだけでなく、大滝の五郎蔵、相模の彦十や小房の粂八などの密偵まで加わって女賊鯉肝のお里を追い詰め、白根の三右衛門一味の逮捕につなげることができました。
「妖盗葵小蔵」(二)でも、蟹江敬三演じる小房の粂八他の密偵、即ち、目明しを使って犯人を追い詰めていきます。
鬼平の捜査にとって、目明しは、居なくてはならない必須の存在でした。
池波正太郎は、「人間というやつ、遊びながらはたらくものさ。善事をおこないつつ、知らぬうちに悪事をやってのける。悪事を働きつつ、知らず識らず善事を楽しむ。これが人間だわさ。」「谷中・いろは茶屋」(二)と、貧困にあえぎ生活のために犯罪に手を染める最下層の人々の心情を述べています。
このような人間観と「俺が信頼する目明したちは、悪さをしない」との信頼が相まって、鬼平は、違法と知りつつ目明しを使い続けたと思われます。
でも、鬼平流捜査は、一歩間違えればお役所と闇勢力との癒着に繋がりかねない危険な捜査ですから、許されない捜査手法というしかありません。このような鬼平の清濁併せ呑む捜査手法こそが「鬼平」の何よりの魅力になっているのですが、この魅力、鬼平以外の人間がまねをすると大変なことになりかねません。ご注意ください。
つづく