石田波郷宅跡から小名木川線の高架下をくぐって、横十間川親水公園方向へ500mほど行くと、江東馬頭観世音があります。
その紹介の前に、この観世音の由来に深く関わる命からがらの体験をされた小久保たか子さんの話を聞いてみましょう。当時小久保さんは19歳、深川地区配給挺身隊で働いていて、現在の江東区役所近辺の平井町(現在の東陽四~五丁目辺り)に住んでいました。
大空襲当日、小久保たか子さんは、焼夷弾がガラガラ、ピカ、シュウシュウと落下し、その飛沫の飛び跳ねた油脂がそこいら中に銀色にカーっと燃えている中を平井町から横十間川沿いの道を逃げて北上した。すると走っていく方向から、火にたけり狂った馬が、まるで妖怪みたいに煙の幕を突き破ってたか子さんに向かって走ってきた。「それが1頭じゃないのよ。ものすごい鼻息で、二頭三頭とつづいて、なかには、ほんとにたてがみに火をつけた馬もいて、そのおっそろしいのなんのって、息もつけず、足も棒みたいにこわばっちまったわね。」「『あらあら結婚もしないうちに、馬に蹴殺されて、一巻のおしまいかな。』って思ったわね。」「どうにかやりすごしたはずの妖怪が、また後ろから引き返してくるのには、さすがのあたしも生きたここちがしなかった。」(早乙女勝元「東京大空襲」93~5ページ)と、迫真の妖怪体験を語ります。
猛火の中を、たてがみに火が燃え移った馬が死に物狂いで逃げ回っているところに出くわしたわけですから、その恐怖は想像するに難くありません。
小久保さんが馬に蹴殺される恐怖におののいた江東区の砂町、大島、亀戸、深川一帯は、輓馬業者が集中し、牛馬の総数3,000頭余りと言われていました。
戦局の激しさが増すに伴い、アメリカによる禁輸のため石油が欠乏し、国内輸送は専ら牛馬に依存せざるを得なくなっていたからです。
たか子さんを恐怖に陥れた妖怪は、たか子さん同様猛火の中を逃げ回った挙句、その殆どが焼夷弾の犠牲になってしまいました。
1953年(昭和28年)、輓馬による運送業者が中心となって愛馬の諸霊を弔い、平和祈願をこめて、南砂の地に江東馬頭観世音を建立しました。
たか子さんが恐怖におののいた南砂一丁目の横十間川沿いの道路は、横十間川親水公園に面した綺麗な舗装道路になっています。想像力豊かな方でも、この道はかって妖怪が右往左往した道であったと知らされてもなかなかピンとこないと思われます。
江東馬頭観世音から次の目的地東京大空襲・戦災資料センターへ向かいます。北に徒歩5~6分のところですが、折角ですから、妖怪を思い浮かべながら、横十間川親水公園を通って行くことにしましょう。もっとも、私はかわいらしい妖精たちに囲まれて、妖怪のことなどそっちのけになってしまいました。
この資料センターは、2002年3月9日、戦争や空襲の記憶の風化を防ぎ、過去の戦争を美化・正当化する動きに反対し、戦争空襲のない平和な社会をつくり、まもっていくことを目指して一般市民4,000人の募金で設立されました。
設立後、東京空襲などの戦争被害の研究を本格化し、2007年度から文科省の科学研究費を受けるようになっています。
センターでは、体験者の証言映像、空襲写真、空襲を描いた絵画、被災地図、被災品などを見ることができます。「モロトフのパンかご」の模型も、ここにあります。
作家早乙女勝元氏が長らく館長を務めていましたが、最近、昭和史の研究者として著名な吉田裕一橋大学名誉教授が館長を引き継いでいます。
この建物の正面には、世界の子どもの平和像が設置されています。
その傍らには次の言葉が記されています。
「目をそむけません
過去の苦しさ いまの世界から
決意します
核兵器も戦争もない二十一世紀をつくることを
走りつづけます
世界の平和を願う歴史のリレーランナーとして
未来へ」
つづく