猿江恩賜公園から新大橋通りを西側に5~600メートル行くと、菊川橋があります。
この橋は、大空襲の際には大変な数の死者を出しました。凄惨な被災者の収容作業を愛機ライカカメラに写し取った警視庁カメラマン石川光陽氏の写真で有名になりました。
大空襲を写し取った写真は、石川氏の手になる写真以外は、殆ど存在しません。
空襲被害の状況を敵国はもちろん国民の目からも隠すため、空襲現場の写真撮影は禁じられていたからです。
菊川橋のたもとから大横川に飛び込んで命拾いをした当時36歳の丹羽哲夫さんは、家族6人で森下町の交差点方面から菊川橋を渡って猿江方面に逃げようとしたそうです。そして、「菊川橋・・・を渡りきると、もう行くももどるもできず・・・北風にあおられながら火が近づいてくる。・・・とにかく息ができなくなって、人の上をのりこえて川へ飛び降りた。・・・乗り越えられてきた人びとは、そのときすでに窒息死していたように見える。」「首だけ出して、北風に乗って橋の下をくぐってくる炎の先や熱風を、泥水のような川にたびたび顔を突っ込んで熱さを避ける。」「死んで沈んだ人々でブヨブヨした感じでした。気がつくと私はいかだの上にいた。」と述懐します。
命からがら生還した同氏も、残念ながらこの逃避行で家族を全部失ってしまいました。(東京大空襲・戦災史第1巻257~258ページ)
現在の菊川橋が架かる大横川の川沿いの小径は、春になると桜が咲き乱れる桜の名所になっています。
75年前の悲惨な現場に咲き乱れる満開の桜は、菊川橋で亡くなった方々への追悼の思いをより深いものにしてくれます。合掌。
1983(昭和58)年3月10日、この橋のたもとに夢違地蔵尊の開眼供養と殉難者追悼供養が行われました。
1985(昭和60)年3月10日、夢違地蔵尊縁起を記した次のような石碑が造られました。
「3月9日夜半、雨あられの如く投火された焼夷弾は、いとまなき出火となり立ち向かう術もなく、劫火の中を、親は子を子は親を、呼び合い叫び逃げまどい、或いは濠に入り、水面に飛び込み、或いは公園校舎に走り、ついに力尽きてその声も消え果て、翌朝光の中の惨状は目を覆うばかりであった。生き残れるもの僅かにしてその様は亡者のようであった。この地の殉難者数約3,000余名と言われている。」
石川氏にまつわる戦後のエピソードに触れておきます。GHQは石川氏の存在を嗅ぎ付け、同氏にフィルムの提出を命令しました。しかし、同氏は再三の提出命令を拒否し続け、GHQをフィルムをプリントしたものでよいと妥協させたのです。天皇に代わる権威になっていたGHQの命令を最後まで拒否し続けた勇気には、快哉を叫びたいと思います。
東京大空襲以後も4月13日、同月15日、5月24日、5月25日と東京への空襲は続きました。その規模は3月10日の東京大空襲と同規模のものでしたが、その犠牲者数は4月13日と同月15日の空襲で3,300人、5月24日の空襲で762人と激減しています。何故これほど犠牲者の数が違うのでしょうか?
当時の防空法という法律およびこれに基づく内務大臣の通牒(現在の通達)では、空襲時に消火活動をせず逃げること全面的に禁止していました。3月14日の読売新聞は法律を守って亡くなった一家を美化して、「火の手に離さぬバケツ 火よりも強し社長一家敢闘の跡」といった記事を書いています。
しかし、3月10日の余りの惨状に、警視庁は「避難の時を誤るな」と防空法を空文化させ、事実上まず逃げる方針に転換せざるを得なくなりました。防空法のバカバカしさは誰の目にも明らかになってしまったからです。
3月10日の大空襲の犠牲者が圧倒的に多かった原因の一つには、防空法の存在があったのです。
つづく