JR亀有駅から環状七号線を歩いて南下します。20分ほど歩いた葛飾区青砥七丁目の道路の両側に、その昔御殿山と呼ばれた小高い場所がありました。

 現在、その敷地を南北に貫いて環状七号線が走り、その道路東側に葛西城址公園が、西側に御殿山公園が設けられています。

御殿山には、家康・秀忠・家光の徳川三代の鷹狩のための青戸御殿が設けられていました。いつしか民間に払い下げられ、畑になってしまいましたが、中心部の御座所の一部は御殿山として守られてきました。

 御殿取り壊し後の御殿周辺の風景を描いた古城蹟目撃図「新編武蔵風土記稿」によって、往時をしのぶことができます。

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     <古城蹟目撃図>

 この御殿山、1961(昭和36)年頃までは弥生時代後期の遺跡として認識されていました。ところが1960年代に環状7号線の建設計画が持ち上がり、1972(昭和47)年から6次にわたる調査が行われた結果、この一帯が中世の葛西城跡であったことが明らかになったのです。

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     <遺跡発掘現場>

 環状七号線の西側の御殿山公園には、「葛西城を偲ぶ」の碑が残されています。

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     <御殿山公園>           <葛西城を偲ぶ> 

 環状七号線東側の葛西城跡公園には、残念ながら足を踏み入れてみても、パラパラと遊具が設置してあるだけです。

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    <葛西城跡公園>

 城跡に残されているのは、この二つの公園だけです。全ては埋め戻されて、お城を偲ぶものは他に何も残っていません。

葛西城跡から発掘された遺物は、すぐ近くの葛飾区郷土と天文博物館に展示されていますので、この博物館を訪ねてみましょう。

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 <葛飾区郷土と天文博物館>

 葛西城を巡る戦国時代の攻防の歴史はおいおい探りますが、何と言ってもこの城は、足利公方の御座所だったのです。公方というのは、足利氏の一族が関東武士団を支配するための政府として当初鎌倉に設置したものでした。公方の力は、戦国時代になるとずいぶん低下していたとはいえ、まだまだ失われてはいなかったようです。

 以下の写真は、葛西城の復元想像図です。

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  <葛西城の復元想像>

 葛西城は、見てのとおり天守閣があったわけでも、石垣があったわけでもありません。そのため、「砦あるいは館程度の小規模なものであったに過ぎまい。」とか、「国府台合戦に備えて急きょ築造された戦のための施設に過ぎない。」等ともいわれていました。

 お城というと、天守閣と石垣で造られた姫路城の姿などを思い浮かべる方が多いでしょうが、戦国時代、そのようなお城は、ありませんでした。

 葛西城は、主に小田原北条氏と里見八犬伝で有名な里見氏との間でたたかわれた第一次、二次国府台戦争における北条方の前線基地になったことで歴史に名を残しているとともに、足利一族の鎌倉公方が一時この城に遷座して葛西公方と呼ばれた歴史にも彩られています。小田原北条氏時代には、南北400メートル、東西300メートル、総面積は36,000坪以上あり、東京ドームの3倍近い面積もある立派なお城だったのです。

 葛西城の遺構は、低地にあるため、台地上の遺跡では残りにくい木製品などの有機質の遺物が、何百年もの間、朽ち果てずに保存されていました。その遺物は、足利義氏が御座していた時代の、武士のステータスを示す威信財の数々です。発掘された遺物を見ただけでも、葛西公方の御座所だったと思わせるに十分です。

 以下、そのような遺物の数々を見てみます。

 初めに紹介する遺物は、本丸から出土した元代の青花器台です。

中世の武士たちは舶来の高級な焼物を珍重し、嗜好していました。その一端は、「茶入れ一つが一国と同じ価値を有する。」とした織田信長にまつわるエピソードからも窺い知ることができます。

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     <青花器台> 

 次は、本丸から出土した蓮弁を刻んだ茶臼です。

 蓮弁模様の茶臼は、14世紀~16世紀にかけて認められており、全国で八遺跡でしか出土していない貴重な遺物です。

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     <茶臼>

 三つめの遺物は、式三献を含む饗宴を偲ばせる品々です。

 式三献とは、かわらけを三枚重ね、一献で一つ目の盃に三度酒を注ぎ、二献で二つ目の盃に三度、三献で三つ目の盃に三度酒を注ぐ酒宴の作法で、武家儀礼の一つです。武家儀礼は、領主と家臣との主従関係や絆を深める装置となり、各地で催されました。

 現在の婚礼の際に行われる三々九度は、式三献を引き継いだものといわれています。

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    <金箔かわらけ>

 戦に明け暮れた戦国の武士達にも、当然のことながら息抜きが必要でした。

 茶の湯は、武士の嗜みとされ、高級武士たちが城内で頻繁に楽しんでいたようです。出土した瀬戸・美濃焼の鉄釉天目茶碗は、そのことを物語っています。

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    <鉄釉天目茶碗>

 遺物の中には、将棋の駒、羽子板、相撲人形等、肩の凝らない遊戯類まであります。戦国時代に生きた人々も、戦の合間に、今の私たちと同じような遊びを楽しんでいたことが分かると、身近な存在に見えてきます。

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     <羽子板>               <相撲人形>

 展示物の中には、戦乱に巻き込まれた葛西城の当時の様子を伝える凄惨な遺物もあります。葛西城の堀から発掘された、斬首された女性の首の復元像です。

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  <斬首された女性の首>

 正確な年代は分かりませんが、戦国時代に生きて首を討たれ、城を囲む堀に打ち捨てられた女性の首です。

よりによって何故女性が打ち首になったのか興味がそそられます。この首は血生臭い戦国時代の雰囲気を生々しく伝えています。

                                            つづく