玉ノ井から15分ほど歩いて秋の花々が咲き乱れる向島百花園を訪れたのは、9月下旬。

 百花園は、1804(文化4)年、骨董屋として財を成した佐原鞠塢(きくう)によって造園されました。かねて付き合いのあった文人達から寄贈された梅樹360株を植えて梅園とし、亀戸の梅屋敷に対して新梅屋敷として知られるようになりました。

 池波正太郎の剣客商売二の「不二楼・欄の間」の章に、主人公秋山小兵衛が四谷の御用聞き「弥七」と、かねてなじみの浅草・橋場の料亭「不二楼」の淡い夕闇漂う庭先を見ながら「見よ、弥七。梅は百花に先駆けて咲くが、それだけに、また、得もいわれぬ気品があるのう」「ははあ・・・・」「春もやや、けしきととのう月と梅・・・こんな句を聞いたことがある。むかしの、何とやらという俳人の句じゃというが・・・」「風流なことで」といった会話を交わすシーンがあります(文庫本295ページ)。この会話に出てくる「何とやらの俳人」芭蕉の句碑がここにあり、「春もやや けしきととのう 月と梅」と読めます。

 新梅屋敷と呼ばれるようになって以後、各地の名花名草が集められ、次第に百花園と呼ばれるようになってきました。江戸名所花暦からも、その賑わいぶりがうかがわれます。

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   <芭蕉句碑>      <江戸名所花歴より>

 今に残る東京の名園は,その殆どが大名藩邸を発祥とするものですが、百花園は町人文化の粋と隅田川情緒が結実した庶民派庭園であるところに特色があります。明治以降は、周辺地域の近代化や度重なる洪水により荒れ果てていたと言われています。

 1939年(昭和14年)、東京市に譲渡され、現在は国指定史跡に指定されています。

 栞門の「花屋敷」の額は、太田南畝揮毫の額を複製したものです。

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 前置きはこの程度にして、向島百花園に足を踏み入れます。

 頃は9月の下旬、都会のど真ん中で花々が咲き乱れる風景に出会うことができました。中でも、満開の紫がかったピンクの萩の花のトンネルは、最大の見ものになっています。トンネルの中で、お茶でものんびり一杯といければ最高でしょうが、何せ花見客で溢れています。そんな我がままが許されるはずもありません。

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 庭の東西には細長い池が走っております。その池越しに観るスカイツリーと野趣あふれる草花の組み合わせの妙は、なかなかのものです。

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 さて、肝心な荷風は百花園をどのように愛でていたのでしょうか。

 百年も前に百花園を訪ねた荷風は、「日和下駄」の百花園の項で、「友の来たって誘うものあれば、わたくしは今猶向島の百花園に遊ぶことを辞さない。」と書き出しています。

 さては名園の佇まいに、私と同じような感慨に浸ったのであろうと思いきや、「是恰も一老夫のたまたま夕刊新聞を手にするや、倦まずして講談筆記の赤穂義士伝のごときものを読むに似ているとでも謂うべきであろう。その講談は老人の猶衰えなかった頃徒歩して昼寄席に通い、其耳に親しく聴いたものに較べたならば、呆れるばかりに拙劣な若い芸人の口述したものである。・・・わたくしが鞠塢の庭を訪うのも亦斯くのごとくである。」と、散々な言葉で始まります。

読み進めると、「鞠塢の百花園は・・・梅は次第に枯れ死し、明治43年8月の水害を被ってから今はついに一株も存せぬようになった。」と、当時の百花園が廃園状態になっていたことも明かされます。

 こんなことを言いながらも、荷風は1924~5(大正13~4)年初夏、「聊(いささか)たりとも荒涼寂寞の思を味わいえたならば望外の幸であろうとなした。」とうそぶきながら、友人と連れ立って百花園を訪れるのです。

 しかし、門を入っても、「平坦なる園の中央は、枯れた梅樹の伐除かれた後朽廃した四阿の残っている外には何物もない。・・・小禽や鴉の声も聞こえない。時節ちがいである上に、時間もおそいので無論遊覧の人の姿も見えない。」と歎くばかりでした。

 それなのに、荷風は、1926(昭和元)年末、友人と連れ立って再び百花園を訪れるのです。

 この時の訪問記には、「初夏の夕に来り見た時、まだ苗であった秋花は霜枯れた其茎さえ悉く刈去られて切株を残すばかりとなっていた。」「わたくしは友を顧みて、百花園を訪うのは花のない時節に若くはないと言うと、友は笑って、花のいまだ開かない時に看て、又花の既に散ってしまった後来たり看るのは、杜牧が緑葉成陰子満枝の嘆きにも似ている。風流とはこんな事だろう。他の友は更に傍より、花壇に花がないのは、あるべき筈のものが在るべき処にないのだ。之を看てよろこぶのは奇中の奇を探るもの。世には風流を解しないものが往々この奇を知る。と言い出したので、一同おぼえず笑って座を立った。」と記しているのです。

 その諧謔振りには、時流に一切身をゆだねず、我が道を歩んだ荷風の面目躍如たるものがあります。

 ちなみに「緑葉成陰子満枝」とは、晩唐の詩人杜牧が、かって美少女を見初め、お金を払って娶る手続きを済ませていたが、少女の下を訪ねたのが遅すぎたため,既に他人の妻となり、子持ちになっていた、という嘆きを喜びの表現でうたった微妙な歌なのです。

 10月中旬、再び百花園を訪ね、萩の花のトンネルをくぐりました。

 奇中の奇を探るつもりではありませんでしたが、萩の花はきれいさっぱり消えていました。

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 ついでに、荷風自作の日和下駄の絵を添付します。

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 荷風が日和下駄の百花園の項を脱稿したのは、1927(昭和2)年6月、濹東綺譚を脱稿したのは、1936(昭和11)年11月です。 

 1931(昭和6)年9月には、柳条湖事件をきっかけに満州事変が、翌1932(昭和7)年5月15日には、五一五事件が、1936(昭和11)年2月26日には、二・二六事件が引き起こされ、日和下駄から濹東綺譚執筆の頃にかけては、愛国心賛美、軍賛美、軍国主義肯定の世論が一世を風靡し始めていました。

 しかし荷風は、軍国主義肯定の世論とは一切関りを持たず、ひたすら個人の世界に没入していました。その結果として、一切戦争に協力しなかった非転向の文学者と言われることもあります。中野重治、宮本百合子が観念に殉じた非転向者だったとすれば、肉体に忠実な非転向者というのです。

 荷風は、一切政治的発言はしませんでしたが、日記文学の傑作と言われる「断腸亭日乗」の1941(昭和16)年6月15日の日記には「日支今回の戦争は日本軍の張作霖暗殺及び満洲侵略に始まる。日本軍は暴支膺懲と称して支那の領土を侵略し始めしが、長期戦争に窮し果て俄に名目を変じて聖戦と称する無意味の語を用いだしたり。欧州戦乱以後英軍振るわざるに乗じ、日本政府は独伊の旗下に追従し南洋進出を企図するに至れるなり。然れどもこれは無智の軍人及猛悪なる壮士等の企るところにして一般人のよろこぶところに非ず。国民一般の政府の命令に服従して南京米を喰いて不平を言わざるは恐怖の結果なり。」

と記して、世論に踊らされないしっかりとした時代認識を持っていました。

 これだけの時代認識を持ちながら、何故非政治的立場をとり続けたのか、後世かまびすしく議論がなされていますが、荷風にとって戦争などどうでもよいことで、自分の自由な生き方に制約を感じることだけが許されないに過ぎなかったからもしれません。

荷風は、1919(大正8)年、六本木に偏奇館を造って、ここから毎日のように銀座を散策したり、浅草の歓楽街や玉の井を訪ね歩いたりしていました。

 偏奇館は1945年3月10日の東京大空襲で焼失してしまいましたので、以後あちこち転居を繰り返し、1957(昭和32)年、市川市八幡に終の棲家を定めました。

 この間、1952(昭和27)年、文化勲章を受章しました。授賞理由は「温雅な詩情と高邁な文明批評と透徹した現実観照の三面が備わる多くの優れた創作を出した他江戸文学の研究、外国文学の移植に上げ、我が国近代文学史上に独自の巨歩を印した。」とあります。

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 1948(昭和23)年から文化勲章の年まで浅草のストリップ劇場「ロック座」に通いつめ、1959(昭和34)年4月30日、79歳で自由奔放な人生の幕を下ろしました。