被服廠跡は、現在その一部が横網公園となっており、その一角に東京都震災記念堂と東京都復興記念館が建っています。震災記念堂には関東大震災の被災者と東京大空襲の被害者の身元不明の遺骨が保管されています。

復興記念館には、関東大震災の被災状況の写真、絵画、遺留品などが展示されています。

復興記念館の周囲には、関東大震災で焼け爛れて変形した鉄製品などが展示されています。

clip_image002 clip_image004 clip_image006

             (横網公園)                             (復興記念館)    (変形した鉄製品)

   また横網公園の一角には、1973年に超党派の国会議員・地方議員の協力を得て建立された「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑」があります。

clip_image008

 (朝鮮人犠牲者追悼碑)

  1974年から毎年9月1日に追悼碑の前で追悼式が行われて、歴代都知事は「多くの在日朝鮮人がいわれのない被害を受け犠牲となった事件は我が国の歴史の中でも稀に見る誠に痛ましいできごと」との歴史的事実をふまえた上で、「このような不幸な出来事を二度と繰り返すことなく誰もが安全な社会生活を営まれるよう、世代を超えて語り継いでいかなければなりません。」と追悼の辞を述べていました。

  ところが、小池都知事は、就任2年目の2018年から「慰霊堂で執り行われている式典にてすべての被災者に追悼の意を表しているので、個別の式典に対しての追悼の辞を行わない。」と述べて、追悼の辞を寄せなくなってしまいました。このような曖昧な理由は、43年間維持した追悼送付を取りやめる根拠にはなっておりません。果たして小池知事の対応が説得力のあるものなのか否かの点は、おいおい触れていく流言発生に伴って引き起こされた朝鮮人虐殺の事実をふまえて、皆様にご自分で判断していただきたいと思います。

  さて、この大地震は、大な数の犠牲者を生んだだけでは済みませんでした。

   東京近辺の電信電話は壊滅して、庶民同士の連絡は言うに及ばず、警察署をはじめとした各官庁の連絡も、皆無の状態になってしまいました。

 庶民が自分たちを取り巻く状況を知る唯一の手段は、新聞報道でした。しかし、東京市の中心部にあった新聞各社は火に包まれ、十六社の新聞社の内、社屋の類焼を免れたのは、わずかに東京日日新聞社、報知新聞社、都新聞社の三社のみで、他の十三社はすべて焼失してしまいました。各新聞社は復旧に全力を傾注しましたが、最も早く新聞を発行できた東京日日新聞社でも9月5日付夕刊を発行できたにすぎません。そのため、庶民は9月1日から5日の夕方まで、新聞報道による情報の入手すらできなくなってしまったのです。

 この間の庶民の動揺を吉村昭は、「関東大震災」で次のように記しています。

「災害の中心になった東京府と横浜市の人口は約450万人であったが、知る手がかりを失った彼らの間に不気味な混乱が起こりはじめた。かれらは正確なことを知りたがったが、知ることのできるものと言えば、それは他人の口にする話のみに限られた。根本的に、そうした情報は不確かな性格を持つものであるが、死への恐怖と激しい飢餓におびえた人々にとっては、何の抵抗もなく素直に受け入れられがちであった。そして、人の口から口に伝わる間に、憶測が確実なものであるかのように変形して、しかも突風にあおられた野火のような素早い速さで広がっていった。流言はどこからともなく果てしなく湧いて、それはまたたく間に巨大な怪物に化し、複雑に重なり合い入り乱れ人々に激しい恐怖を巻き起こさせていった。」

  不安におびえる庶民の間で、急速に流言が広がっていったのです。

  警視庁で確認した流言には、9月1日午後1時頃の「富士山大爆発、今なお噴火中」「東京湾に猛烈な海嘯襲来す」といった荒唐無稽なものから、同日午後4時頃からの「鮮人放火の流言管内に起こり」(王子警察)、午後6時頃からの「鮮人襲来の流言初めて管内に伝わり」(芝・愛宕警察)といった朝鮮人をターゲットにしたものまでありました。

  とりわけ朝鮮人の放火、爆弾所持、襲来といった流言が、9月1日夜から東京市内の警察署に次々と報告されるようになりました。同月2日の報告分で、報告された警察署名が判明しているものだけでも60件近くに上りました。

  そのうちの一つ、亀戸警察署の「流言及び自警団の取り締まり報告」を見てみます。

「9月2日午後7時頃『鮮人数百名管内に侵入して強盗・強姦・殺戮等暴行至らざるところなし』との流言行わるると同時に、小松川方面に於て警鐘を乱打して非常を報ずるあり、事変の発生せるものの如くなれば、古森署長は軍隊の援助を求むると共に署員を二分し、一隊をして平井橋方面に出動せしめ、自ら他の一隊を率いて吾嬬町多宮ヶ原に向かいしに、多宮ヶ原に避難せるおよそ二万の民衆は流言に驚きてことごとく結束し鮮人を求むるに余念なく、闘争・殺傷所在に行われて騒擾のちまたと化したれども、遂に鮮人暴行の形跡を認めず、即ち付近を物色し鮮人二五〇名を収容してこれを調査するにまた得る所なし,而して民衆の行動は次第に過激となり、警察官および軍人に対してまで誰何尋問を試み、または暴挙に出でんとせり。しかるに鮮人暴行の説が流言に過ぎざることようやく明らかとなりたれば、同三日以来その旨を一般民衆に宣伝せしも肯定する者なく、自警団の狂暴は更に甚だしく鮮人の保護収容に従事せる一巡査に瀕死の重傷を負わしめ、又砂町の自警団員中の数名の如きは、良民に対して迫害を加えたる際、巡査の制止せるを憤り、これを傷けしかば、直ちに逮捕したるに,署内の留置場において喧騒を極め、さらに鎮撫の軍隊にも反抗して刺殺せられたり。」とあります。

  他の報告書も、いずれも自警団の暴虐ぶりを報告するものばかりで、朝鮮人の暴動の事実を把握しているものは皆無でした。

 このように警察によって、朝鮮人暴動にかかわる流言内容の事実の存在が確認できないとされる一方、警察によって流言内容が市民に拡散させられて行きました。

 寺田寅彦の「震災日記」の9月2日の条には、「帰宅して見たら焼け出された浅草の親戚の者十三人避難してきていた。・・・昨夜上野公園で野宿していたら巡査が来て、朝鮮人の放火者が徘徊するから注意しろと言ったそうだ。」との記載があり、

10月28日の報知新聞夕刊には、「10月25日、本郷区議会議員、区内有志、自警団代表の会合で、自警団代表が『9月1日夕方曙町交通巡査が自警団に来て、各町で不平鮮人が殺人放火をして居るから気をつけろ。と二度まで通知に来た。』と述べた。」との記載がありました。

 大震災当日の9月1日の夕方には、流言を真に受けた警察官の口から、市民向けに流言が流され始めてもいたのです。

  警察が混乱を極めている状況下、戒厳令が、9月2日に東京市と隣接5郡で施行され、翌3日に施行域が東京府と神奈川県に、4日に千葉県・埼玉県にまで拡大されました。

  戒厳令は、本来内乱又は戦争のために宣言される軍事戒厳なのですが、この時の戒厳令は、帝国憲法第8条の緊急勅令制定権を利用した国内治安維持のための行政戒厳でした。3日の関東戒厳令司令官命令は、その実施目的を「不逞の挙に対して、罹災者の保護をすること」をあげ、戒厳令司令部に対し、押収、検問所の設置、出入りの禁止、立ち入り検察、地境内退去など、災害時における対処としては著しく過大な権限を与えたものでした。

  戒厳令の実施目的からすると、朝鮮人についての流言内容が戒厳令発令のきっかけになったと推測され、戒厳令の宣言は、中央および地方の官憲に対して、朝鮮人暴動に対する危機意識を過剰に持たせることになってしまったと言うことができます。

                          つづく