大震災当時の新聞には、「不逞鮮人」「朝鮮人パルチザン」といった言葉が溢れていました。ロシア革命後の内戦に日本が関与していた時期に起きた1920(大正9)年春の尼港(二コラエフスク)事件において、シベリア出兵中の日本軍部隊など日本人700名を含む6,000人が赤軍パルチザンに殺害され、このパルチザンの中に朝鮮人パルチザンが含まれていました。武力進入を企図する不逞鮮人に対して、「これにせん滅的打撃を加えるべし。追撃のため、要すれば鮮外に進出するを得。」として、中国の間島まで出兵をしました。間島は、中朝国境を流れる豆満江の北側、今の中国吉林省の一部で延辺朝鮮族自治州となっている一帯です。
間島出兵で抗日パルチザンとの戦いの中心になっていたのは、東日本一帯で徴兵した第一九師団兵士一万名であり、その多くを占めた現役兵は、兵役期間を過ぎれば郷里に戻り、在郷軍人となったのです。
つまり、大震災の僅か2年半前に大々的に報道された尼港(二コラエフスク)事件によって日本人の脳裏に朝鮮人パルチザン=日本人大虐殺との連想が刻み込まれていたところに、「不逞鮮人」「パルチザン」と対峙した経験を持つ兵が在郷軍人として東日本一帯に大量に存在していたことになるのです。このような事実が、朝鮮人大虐殺を引き起こす原因の一つになったことは間違いありません。
とは言え、尼港(二コラエフスク)事件は、日本がロシア革命後の内戦に関与して日本人が殺されたに過ぎません。大虐殺を引き起こす原因としてこの事件を挙げるだけでは不十分です。
もう少し日本と韓国の関りの歴史を遡ってみます。
日本は、1894(明治27)年に起きた日清戦争前後から韓国に対して軍事力を行使し、1905(明治38)年、日露戦争に勝利した年に第二次日韓協約の調印によって韓国を保護国とし、1910(明治43)年の日韓併合条約によって韓国を併合しました。
じわじわと軍事力をもって韓国を日本の支配下に置いて行ったのです。この過程が平穏裡に進んだはずがないことは、誰しも容易に想像できます。
この間、日本と韓国ないし韓国人との間では、幾多の戦争ないし武力を伴う衝突が引き起こされていました。めぼしいものを挙げただけでも、1894(明治27)~の東学農民戦争、1905(明治38)年~の義兵闘争、1919(大正8)年~の日本による植民地支配からの独立を願い朝鮮全土に広がった民衆運動の三・一運動などがあります。
(義兵の写真)
ここでわざわざ、韓国ないし韓国人と記したのは、理由があります。当時、韓国王政府の力が極めて脆弱であったため、農民・民衆は、政府とは関係なしに、あるいは武装して(東学農民戦争や義兵闘争)、あるいは武器を持たないで(三・一運動)、日本軍に対して蜂起していたからです。
これら戦争や衝突は、日本の圧倒的な武力の下に、韓国人側が大量の死者を出して鎮圧されていきました。東学農民戦争における農民軍の死者は推定3~5万であるのに対し、日本軍の死者はわずか1名、義兵闘争(日本の側からいうと義兵討伐)における義兵側の死者が1万7779人であるのに対し、日本兵の死者は136人、三・一運動における韓国側の死者は約900人、というように韓国人側に圧倒的な数の死者が発生しました。
日本と韓国との死者数の極端な非対称性は、韓国側の死者がまともな戦闘によって殺害されたというよりも、圧倒的な日本軍の武力によって虐殺に近い形で殺害されたことを強く窺わせます。このような事実を示す記録も、少なからず残されています。
2011(平成23)年に発見された、1894(明治27)年に発生した日清戦争に従軍した一兵士の「日清交戦従軍日誌」には、「南門より四丁計り去る所に小山有。人骸累重、実に山を為せり。責問の上、重罪人を殺し、日々拾二名以上、百三名に登り,依ってこの所に屍を捨てし者、六百八十名に達せり。臭気強く土地は白銀の如く、人油凍結す。」とあります。重罪人とは、東学農民戦争における農民軍のリーダー的立場にあった人たちと考えられます。
また、1907(明治40)年の義兵の姿を追ったカナダ出身のイギリスの新聞記者マッケンジーは、その著書「朝鮮の悲劇」で、「日本軍部隊は三方から攻撃され、数名の戦死者を残して撤退を余儀なくされ、堤川を地方民に対する見せしめの場所とすることを決意し、町に火を放った。その結果、「堤川の町全体はたいまつと化して火の海となった。日本軍は、破壊をめざす町中のあらゆる物資をうずたかく積み重ねて、その炎をあおり立てた。その結果、この町には、一体の仏像と一軒の官衙のほかには何一つ残らなかった。」と記しています。
その暴虐ぶりは、朝鮮駐箚軍司令部が1913年にまとめた義兵鎮圧の記録に「初期に於いては、土人亦彼等暴徒に同情し之を庇護する傾向ありしを以て、討伐隊は以上の告示に基き、責を現犯の村邑に帰して、誅戮を加え,若しくは全村を焼夷する等の処置を実行し、忠清北道堤川地方の如き極目殆ど焦土たるに至れり」とあるところからも十分窺うことができます。
このように、日本と韓国ないし韓国人との間では、1894(明治27)年以来、幾多の戦争ないし武力を伴う衝突が繰り返されており、そこには大勢の日本軍兵士が動員されていたのです。
兵士たちの多くは、自ら残虐行為に手を染めたか否かは別にして、日本軍の残虐行為を知悉していた筈です。そして、前述の「防災教訓の承継に関する専門調査会報告書」も述べているように、朝鮮人に対してはあれほどひどいことをしたのだから、機会があれば仕返しをされるかもしれない、との思いを抱いていたと考えられます。
辛いことではあっても、自警団の主要構成メンバーであった在郷軍人会の元兵士たちの戦争・武力衝突体験が、朝鮮人虐殺の大きな原因となってしまったという負の歴史は、直視しなければなりません。
ところが近年、「朝鮮人は本当に暴動を起こしている」「犠牲者数は233人」といった主張が一部に広がってきています。一体どのような根拠に基づいているのでしょうか?
作家の百田尚樹氏は、その著書日本国記で、「日本人自警団が多数の朝鮮人を虐殺したといわれていますが、この話には虚偽が含まれています。一部の朝鮮人が殺人・暴行・放火・略奪を行ったことはまぎれもない(警察記録もあり、新聞記事になった事件も非常に多い。ただし記事の中には一部デマもあった)。中には震災に乗じたテロリストグループによる犯行もありました。」「司法省の記録には、自警団に殺された朝鮮人犠牲者は233人とあります。一般に言われている朝鮮人の犠牲者約6千人は正しくありません。」と述べています。
この本はベストセラーになったといわれ、その与える影響は大きいと思われますので、そこに記載されていることの真偽は、はっきりさせておく必要があります。
司法省の「震災後に於ける刑事事犯及之に関連する事項調査書」(1923(大正12)年11月)は、朝鮮人暴動の流言について、「一定の計画の下に脈絡ある非行をなしたる事跡を認めがたし」としています。
その「朝鮮人の犯罪リスト」には、犯罪件数42件、容疑者数138~9人が挙げられていますが、このリストには容疑者行方不明とか氏名不詳が少なくなく、起訴されたのは僅か12人に過ぎません。しかも、その犯罪類型は、窃盗・横領が合わせて10人、爆発物取締罰則違反が1人、銃砲火薬類取締法施行規則違反が1人であり、凶悪事件は見当たりません。爆発物取締罰則違反の事件は、当時掘削工事中の荒川放水路の河川敷で工事用のトロッコの中で寝ているところを見付けられた際、ダイナマイトを持っていたという案件に過ぎません。このリストには、誰かに危害を加える意思を持っていたとは言えないという判決まで掲げられているのです。
ちなみに、震災からその年の10月末までで被災地域の検事局が受理した窃盗事件の件数だけでも2,800件にも上っていたことを考えると、朝鮮人の犯罪が如何に少なかったのかということがよくわかります。
公安調査庁の局長であった吉河光貞検事は、関東大震災の裁判記録などを検証して「関東大震災の治安回顧」をまとめています。その中で同検事は、「震災直後司法警察間の捜査が一時この種鮮人犯罪の検挙に傾注された観あるにかかわらず、被疑事件として同検事局に送致された放火、殺人などの重大犯罪すら、その大部分が犯罪の嫌疑なきものとして不起訴処分に付されるがごとき状態であったことは注目に値する。」と述べています。
百田氏の「テロリストグループによる犯行もありました。」との叙述は、明らかに間違っています。
それでは、朝鮮人の犠牲者数の記述はどうでしょうか?
約6千人という数字は、大震災の翌月、翌々月と朝鮮人留学生らが警察の妨害をかいくぐって関東全域を踏破し調査した結果発表した数字で、近年まで一般的な歴史書ではこの数字が掲載されていました。新しい歴史教科書をつくる会理事を務め、フジサンケイ系の歴史教科書の編集に参加する伊藤隆東大名誉教授の文章中でも6,000人が殺されたという記述がなされているのです。
しかし、1970~80年代にかけて改めて犠牲者数についての検証が試みられ、最近では数千人といった幅のある表現がされるようになっています。
ですから、百田氏の「約6千人は正しくありません。」という叙述は間違いとは言いませんが、同氏の叙述をそのまま読んでいると犠牲者数は233人と勘違いしかねません。233人との数字は、刑事事件として立件された朝鮮人殺害事件の被殺者数を合算したものに過ぎず、到底虐殺事件の全貌を明らかにするものではありません。ここには軍による殺害者数が含まれていませんし、既に述べた旧四ツ木橋での虐殺のように、そもそも治安当局が把握していない殺傷行為が膨大に存在していたからです。
つづく