大正年間と言えば、大正デモクラシーと言われた時代で、1918(大正7)年7月には、近代史上もっとも大規模な社会運動と言われた富山県魚津の漁師の妻たちの行動が発端となった50日間に70万人以上が参加したと言われる米騒動が起きていました。1910(明治43年)の大逆事件以来活動が封じられていた社会主義運動も復権しつつある時代でした。

その様な時代背景の中で、大杉栄は、無政府主義者(アナキスト)の頭目と目されていました。その様なこわもての顔と同時に、おしゃれで人付き合いの良い気さくな男、数か国語を操るインテリ、自由恋愛を実践し、妻と神近市子、伊藤野枝の3人の女性を愛するという複雑な女性関係の中に身を置いて神近市子に葉山の日陰茶屋で殺されかかった男、といった顔も持っていました。

  他方、伊藤野枝は、平塚らいちょうの青鞜に参加して、妊娠中絶・廃娼問題などの評論を書いたり、小説を書いたりと情熱的な活動をする中で、28歳で虐殺されるまでの短い人生の間に、辻潤との間で2人の男の子を、大杉栄との間に4人の女の子と1人の男の子と実に7人もの子供を産んだという生命力に満ちた女性でもありました。

  しかし、当時の社会情勢の下で、大杉とともに人生を生きることが極めて危険なことも分かっていました。身内には、口癖のように、「私たちはどうせ畳の上で死ねない人間だから。」というのが常であったと言われています。

  このような大杉栄、伊藤野枝夫妻の生きざまは、芸術家の創作意欲を強く刺激するものあるようです。瀬戸内寂聴、村山由佳の二人の作家が伝記小説を書き、映画化が4回、テレビドラマ化が3回されています。

  最新の作品は、2022秋のテレビドラマ村山由佳原作の「風よあらしよ」で、大杉栄を永山瑛太が、伊藤野枝を吉高由里子が演じて評判になりました。

  さて、問題の甘粕です。1929(昭和4)年二月末に留学から戻ると、同年秋、大川周明の世話で満州に渡ります。それ以後の甘粕は、1931(昭和6)年9月18日の満洲事変のきっかけとなった柳条湖付近の満鉄線爆破事件の謀略工作に関わったこと等を皮切りに、1932(昭和7)年の満州国建国、その後の満州国運営に関わっていきます。

  その関わり方も、当時の実情を知る人たちが、「昼間の満洲は関東軍が支配し、夜は甘粕が支配した。」「満洲の陰の支配者は官僚である。」と言っていたように主に謀略など満州国の裏面に関するもので、謀略工作の中身は、阿片売買の操作と排英工作であったと言われています。

  アカデミー作品賞、音楽賞などを受賞した映画ザ・ラスト・エンペラーでは、先ごろ亡くなった坂本龍一が作曲と甘粕正彦役を担当しております。その映画の一場面で、満洲皇帝溥儀の皇后婉容が発した「(満州国の)第一の権力者は甘粕だ。」との言葉が印象に残ります。

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   (皇帝溥儀)

  1936(昭和11)年秋、満州の陰の支配者たる官僚の代表岸信介が満州に乗り込んで、満州国産業開発計画の責任者になると、岸が表の顔、甘粕が裏の顔となってコンビを組んで、先に述べた阿片売買の操作などに関わっていきました。しかも、阿片売買が1939(昭和14)年当時で、満州国予算の6分の1を占めていた(太田尚樹著:満洲裏史336ページ)と言われているところからも分かるとおり、満州国は阿片取引で成り立つ国家だったのです。

  岸と甘粕は、満州国の表と裏の顔と言われましたが、二人の満州国にかける思いには大分違いがあったようです。

  岸にとって、満州国は「日本と自身の飛躍のためのステッピングストーンでしかなかった」が、甘粕にとって、満州国で「五族協和」の理想の実現を目指すことは国家の為と信じていたようです。(太田尚樹著:満洲裏史321ページ)

  甘粕にとっては、国家のためという大義名分の下での行為は、大杉栄の殺害にせよ、満州国を壟断することにせよ、何ら後ろめたいことではありませんでした。甘粕が満州国で活躍することは、国家のために尽くしていることであり、自分の男を立てていることであり、一度地に堕した自分の名誉を復権することにもつながっていたのです。(瀬戸内寂聴「諧調は偽りなり」下巻296ページ)

  甘粕が、満州で行ったことは既に歴史の審判が出ており、それを前向きに評価することは難しいと思います。

  ただ、自分が満州で行ったことが「五族協和」の理想に出でたものだとしても、その理想と現実との間に大きな乖離があったことは、甘粕本人も気づいていたようです。

  1945(昭和20)年8月17日夕方、甘粕は、新京の自らが理事長を務める満洲映画の日系満系全職員とその家族千名を招いての慰安パーティを開催しました。その時、理事長室の黒板には、甘粕の字で「大ばくちもとこもなくしてすってんてん」と書きなぐってありました。(瀬戸内寂聴「諧調は偽りなり」下巻307ページ)

  同月20日、甘粕は、青酸カリを用いて、自らの人生の幕を下ろしました。

 享年58歳。

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                 (甘粕正彦)

 他方、岸は、商工大臣時代、東条首相より「必勝の信念がないなら閣僚などいらない。君が辞めろ。」と言われると、「東条さん、あんたが辞めないなら、私も辞めません。」とやり返して、1944(昭和19)年7月の東条内閣崩壊のきっかけを作りました。もはや敗戦は免れない状況下、打倒東条は国難の打開、つまり国家のためにという大義名分が成り立つ一方で、戦犯を逃れることまではできないまでも、連合軍から大きなポイントを稼ぐことができると読んでいたからです。

  実際、東京裁判で「東条内閣を倒した岸信介」は、狙いどおり有利に働き、不起訴を勝ち取りました。(太田尚樹著:満洲裏史443ページ)

  そして、若い頃から持っていた「俺は長州で何人目の首相になるのかな。」(太田尚樹著:満洲裏史32ページ)との夢を実現して、戦後、総理大臣となり、1987(昭和62)年8月7日、「昭和の妖怪」と呼ばれながら90歳で亡くなりました。

                               完