弘福寺を南へ徒歩2~3分で最後の三囲神社に着きます。同神社が文和年間(1353~1356年)近江三井寺の僧 源慶による再興が実質的な創建とされていること、及び、その名の由来は、本ブログ第14回で述べた通りです。
社殿は、安政の大地震後の文久2年(1862年)大工平野忠八によって再建され、関東大震災、戦災をも免れた貴重な 建物で、江戸末期の様式を見ることができると言われています。
境内には年輪を重ねた石造物とりわけ著名な石碑が多く設置されており、本ブログ第14回で述べた其角の句碑以外に も、三井家から奉納された延亨2年(1745年)奉納の石造狛犬、寛政11年(1799年)4月の銘がある一対の石 造常夜灯、享和2年(1802年)12月奉納の石造神狐などがあります。
中でも是非紹介しておきたいのは、境内の南西端、恵比寿大国神祠の南の高さ152センチ、幅142センチの「一勇 斎歌川先生墓表」です。一勇斎歌川と言われて分からなくても、歌川国芳と言えばお分かりの方もいるでしょう。「通俗 水滸伝豪傑百八人一個」の連作で武者絵の第一人者と言われ、風刺画、擬人画、風景画、肉筆画などあらゆる分野で高い 水準の作品を残した浮世絵師で、近年の研究では北斎と並ぶ浮世絵師としての評価が高まっております。
次いで大鳥居も紹介しておかなければなりません。徳川吉宗の時代に治水のため中州を取り払って土手を盛り上げたた め、下流から船で来ると鳥居がまるで土手に突き刺さったように見えたことから「土手下鳥居」とか「せり出し鳥居」な どと言われ、見えそうで見えないことから男女の心の動揺の比喩にも用いられて、小説・小唄・川柳などにも登場しました。安政の大地震で倒壊し、久2年(1862年)三井家によって再建されました。
最後に隅田川七福神の掉尾を飾る恵比寿様、大国様に触れなければなりません。恵比寿は漁業の神様、大国は農業の神 様とされますが、この二神、商売繁盛の神様として一組で祀られることが多いようです。三囲神社の二神は、いずれも像 高18センチ、享保年間(1716~1736年)、三井高房によって寄進された古木を削って作った小さな素朴なお像 で、ここにも三井家の存在が見てとれます。