今日は五色不動の中でも一番有名な目黒不動を訪ねます。
目黒不動は、泰叡山瀧泉寺が正式名称で、大同3年(808年)、円仁の創建にかかると伝えられている古刹です。
寛永年間、三代将軍家光が当寺付近で鷹狩中、愛鷹が行方不明となりましたが、当寺の別当の祈祷をすると境内の大きな松の木に戻ってきました。
このことに感激した家光は、当寺を深く信仰するようになり、火災のため堂塔ことごとく灰燼に帰した当寺の再建に寄付をし、寛永11年(1634年)50棟に及ぶ伽藍が復興したと言われています。
目黒御殿と呼ばれるほど華麗を極めたと言われ、江戸名所図会からもその一端を知ることが出来ます。
「翌々日の昼前から、乞食坊主は、白金通りの両側を托鉢して歩いた。この道は、まっすぐに目黒不動に通じ、江戸からの参詣道となっているだけに、町屋もあるし、茶店も多い。托鉢のついでに、坊主は目黒不動へ行き、菜 飯と田楽で腹を満たしてから、あの小屋への帰途についた。」(鬼平犯科帳5巻58ページ)
池波正太郎が当時の賑わいをさりげなく描いていますので、皆様も想像の翼を広げて当時の様子を思い描いてみてください。
前置きはその位にして、東急目黒線不動前駅から徒歩10分程、権之助坂を下っていくと、立派な仁王門が見えてきますが、その手前に比翼塚があります。
鳥取池田藩士であった白井権八は、父の同僚を斬って出奔。吉原の遊女小紫と馴染みになり、小紫と会うために金目当ての辻斬り等を繰り返した。その後目黒不動そばの東昌寺の僧侶に諭されて自首。斬首となった。それを知った小紫は東昌寺の白井権八の墓前で後追い自殺をした。この秘話が歌舞伎化され、広く知られるようになった。
これが、白井権八と小紫の比翼塚に伝わる秘話です。
因みに、比翼塚は相愛の男女や心中した男女を葬った墓を意味しますが、この比翼塚はもっとも有名なものです。
さて本題に戻って、仁王門は、あいにくの工事中で網がかかっていました。
仁王門を入ると、かっての隆盛を思わせる広々とした境内が視野に入ってきます。
境内の様子は、次回お伝えいたします。。