浅草通りを西へ2~300メートル程、業平一丁目の交差点を南側へ左折すると本所税務署が見えてきます。
その真正面の通りに、墨田区教育委員会の「小梅銭座跡」の説明板が置かれています。
江戸中期以降に稼働した銭座のようで、元文元年(1736年)10月20日に裏面に「小」の一字を入れた寛永通宝が鋳造されたことが分かっています。
寛永通宝を目にする機会があったら、裏面に「小」の文字が書かれてないか注意してみたいと思います。
さて、この税務署の裏手に「ナメクジ長屋」がありました。
古今亭志ん生は、昭和3年(1928年)4月から昭和11年(1936年)まで、「ナメクジ長屋」に住んでいました。
志ん生は、「びんぼう自慢」で、浅草立花館の寄席の楽屋で、太鼓持ちから「家賃のいらねえ家があるんだが、誰かかりる人ァいませんか」と声を掛けられ、それまで住んでいた笹塚から夜逃げをするように荷車を曳いて「ナメクジ長屋」へ移ってきたと書いています。
「ナメクジ長屋」のひどさを、「夜仕事から帰って、おう、いま、けえったよ・・・って言おうと思ったら、途端に蚊が2~30も口の中に飛び込んできやがって、モノがいえやしない。かかァなんぞ、破れ蚊帳の中で、腰巻一つになって、ペタンとすわってやがる。二、三日たって、大雨降ったら、こりゃァひどいですよ。泥がつまっているとみえて、ドブ板が浮き上がって、水が家ん中まで「こんにちは」もいわないで入って来る。」「「まず家賃をタダてえことにして、カモをおびき寄せる。一軒住めば、あとは順々に埋まるだろうてえ家主の心づもりだったんですよ。」と語りながら、「長屋の中には秘密なんてえものがない。なんでもかんでも素通しです。仲がいいんですよ。醤油を切らしたと言えば、となりがかしてくれる。お茶がないといえば、向かいの人がかしてくれる・・・長屋じゅうが一軒の家みたいでしたよ。夫婦喧嘩も、子供のいたずらも、どこの家に客が来たなんてえことも、すぐにわかってしまう。」と懐かしんでいます。
もっとも、息子の志ん朝は、この貧乏生活を、「親父はけっして貧乏でなかった。好きな事をして遊び歩いていた。貧乏だったのは母親と私たちだった。」と述懐しています。志ん生にとって、貧乏も芸の一つだったのかもしれません。
さて肝心の「ナメクジ長屋」のあった場所を訪ねると、マンションに変わっています。
裏手の路地に入ると橙や椿の樹がポツンポツンと植えられていました。
長屋の路地の名残なのかなと思いながら、次回は志ん生が毎日のように渡った業平橋を目指します。