今回は、隅田川の西岸にまで足を伸ばし、湯島天神を訪ねます。雄略天皇2年(458年)1月、雄略天皇の勅命により天之手力雄命(あめのたぢからをのみこと)を祀る神社として創建されたとの伝承があり、南北朝時代の正平10年(1355年)、住民の請願により菅原道真を勧請して合祀しました。
徳川家の崇敬を受けて江戸時代には多くの学者・文人が訪れ、江戸名所図会にも、広重の浮世絵にも描かれています。撮影年月日は不詳ですが、古写真も残されています。
江戸名所図会を見ると、境内に芝居小屋もあるようです。江戸時代、聖と俗が同居するのは珍しくありませんでした。
湯島天神といえば、境内の梅の花が有名で、この地を舞台に泉鏡花が「婦系図」を書きました。この小説は「湯島の白梅」として何度も映画化され、戦後の映画では山本富士子の「お蔦」、鶴田浩二の「主悦」のそれが有名です。戦前には、小畑実のレコード「湯島の白梅」も大ヒットしました。
湯島天神を有名にしたものに、もう一つ富籤がありました。享保年間(1716年~1736年)、吉宗は、財政難を理由に神社仏閣に対する援助を打ち切り、その代りに富籤を認めました。谷中感応寺、目黒不動、湯島天神の三社寺で売り出された富籤が、江戸の三富と言われ有名になりました。富籤は神社仏格にとって、何もしなくてもお金が集まってくる打出の小槌のようなもので、我も我もと次第に、あちこちの社寺でも富籤が広がるようになりました。そうなると、金回りの良くなった僧侶が妾を囲ったり、岡場所に通って女犯を犯すといった事態が目につくようになってきました。ついに、お上の怒りを買うようになり、1842年、水野忠邦の天保の改革で富籤は禁止されてしまいました。
地下鉄湯島駅を降りて、春日通りを西に進みます。湯島の切通しと言われた坂道の左手に湯島天神があります。
30数年前の司法修習生の頃、私たちはこのすぐそばの岩崎邸の一角の司法研修所で勉強に励んでいた筈です。怠惰な修習生であった私は、残念ながら学問の神様には縁がなく、ただの一度も足を踏み入れませんでした。この年になって初めてお参りでは、手遅れもいいところです。今更霊験新たかでもありませんが、立派な、拝殿で懺悔を込めて柏手を打ってきました。
湯島天神から不忍池を望む浮世絵が印象的だったので、不忍池方向を望んでも、残念ながら今では巨大な湯島ハイタウンが見えるだけです。
おりしも不忍池では蓮の花が満開でしたが、どうしようもありません。
境内には泉鏡花の筆塚があります。
湯島天神といえば、男坂と女坂。男坂は、急な階段がストンと町屋まで降りています。
緩やかな女坂は、男坂と直角方向へなだらかに降りています。途中の梅の古木、古い木造家屋はなかなか風情があります。かすかに江戸情緒を味わった気がして満足し、湯島天神を後にしました。