今回は、国立市まで足を伸ばし、最後の三大天神、谷保天神を訪ねます。

 社伝によると、延喜3年(903年)、菅原道真の三男道武が、父を祀る廟を建てたことに始まると云われ、東日本最古の天満宮で、江戸名所図会にも描かれています。

   谷保天神名所図会

 近くの南武線谷保駅の駅名が「やほ」なので、地名まで「やほ」と呼ばれるようになってきましたが、谷保の本来の読み方は「やぼ」です。

江戸時代の狂歌師太田蜀山人が「神ならば、出雲の国に行くべきに、目白で開帳、やぼのてんじん」と詠み、ここから野暮天との言葉が生まれたとの逸話も伝わっています。

 甲州街道から鳥居をくぐります。石段を南側に下って拝殿に向かうという珍しい造りの神社です。しかし、創建当初からこのようになっていたわけではありません。江戸名所図会をよく見るとお分かりになると思いますが、江戸時代の甲州街道は谷保天神の南側にあったのです。このような一風変わった造りになったのは、甲州街道が天神の北側の高台に移動してしまったからなのです。

 例大祭で賑わう参道を左に曲がると、梅園があります。

   谷保天鳥居   谷保天露店①   谷保天梅園

 梅の花の季節ではないので、派手さはありませんが、土壁に囲まれ、鶏が歩き回る梅園は、なかなか風情があります。

   谷保天土塀   谷保天鳥①

 参道に戻り、急坂を降りると左手に神楽殿が、右手に拝殿が見えてきます。

   谷保天神楽殿   谷保天拝殿

 拝殿の脇を西側に進むと、常盤の泉から湧き出た池の中に浮かぶ社内社厳島神社があります。

 鯉や亀が泳ぐ池からは水が溢れ出し、天神様の側溝を東側に勢いよく流れ下っていきます。

   常盤の泉   谷保天泉   谷保天溝①

 水の流れに従って神社の裏手に足を踏み入れると、路地裏にコスモスが咲いて、秋の気配が漂っています。そのままブラブラ歩いて人家の途切れた先には、稲穂が垂れています。田んぼの中には、あちらこちらに案山子。案山子を目にするなんて、一体何年ぶりのことでしょう。

 小川を流れる清流の川床には、水草が揺らめいています。

   谷保天コスモス   谷保天裏田圃   谷保天裏かかし   谷保天裏せせらぎ

 大学時代、ワンダーフォーゲル部のトレーニングで時々谷保駅近くまで走ってきたことがあったのですが、こんなところに田園風景が広がっていることには気が付きませんでした。田圃道を、のんびりと近くにある城山に向かいます。

   谷保天城山① (2)   谷保天城山①   谷保天城山③

 城山は、新編武蔵風土記稿によれば、津戸三郎居住の跡とされています。この人物は、菅原道武から数えて7代目で正式名称は津戸三郎菅原為守で、源頼朝の家人でした。この津戸氏は、南北朝の戦乱の最中までこの付近を領有していたと考えられています。

 もっとも江戸名所図会には三田貞盛の館跡と書かれています。

 城山は、史跡ではありますが、私有地でもあり、城山の入り口と中心部に二軒の民家が残っています。二軒とも表札を見てみると三田さんです。

   DSCN2312   谷保天城山三田氏宅②

 豪族三田氏が、現在まで生き延びて三田さんに繋がっているとしたら夢のある話ですが、この辺は未だ解明されていないようです。

とにかく城山は緩やかな岡の上にあり、古い井戸や節だらけのしらかしの古木が目を引きます。

   谷保天城山井戸   谷保天城山しらかし

東京都教育委員会の説明版では、未だ本格的な発掘調査は行われていないとのことです。将来、中世史を塗り替えるような発見を期待したいと思います。