情弁護士の下町探訪(第82回鎌倉・室町時代の葛西①)

 中世の下総国葛西郡は、現在の葛飾・江戸川・墨田・江東区域に該当します。

 武蔵国豊島郡を本拠とする豊島権守清元の子三郎清重は、治承元年(1177年)以降、源頼朝が挙兵する治承4年(1180年)までの間に葛西を譲り受け、葛西氏を名乗ります。この清重が関東の葛西氏の初代となり、六代清貞まで葛西郡を本拠としました。

これから葛西氏の始祖、葛西清重の足跡を訪ねてみたいと思います。何せ800年以上も昔のことです。どこまで歴史の真実に迫れるか自信がありませんが、とにかくできる範囲で迫ってみたいと思います。

 平治の乱で捕らえられ、伊豆に流されていた源頼朝は、以仁王の平家打倒の令旨を受け挙兵しました。しかし、この挙兵は失敗、石橋山の戦いで敗退します。そのときの洞窟に隠れる頼朝主従を描いた前田青邨の「洞窟の頼朝」(重要文化財)を目にしたことのある方は、多いはずです。

  洞窟の頼朝

 吾妻鏡によれば、頼朝は、その後安房に逃れます。再起を図る安房の頼朝の

もとに次第に東国武士が参集してきました。頼朝勢は上総、下総と続々と軍勢

を増やしながら市川から江戸川を越え、隅田川東岸に軍勢を展開していきまし

た。治承4年(1180年)9月17日に市川に至り、9月19日に上総権介

広常の大軍が隅田川周辺に到着、同年10月1日には「鷺沼御旅館」に入っ

て、軍勢の集結が完了します。

頼朝勢は、同月2日に隅田川を渡り、同月6日には念願の鎌倉入りを果たすこ

とになります。

 ここで「鷺沼御旅館」の所在地はどこだったのか?というのが歴史上の謎に

なってきました。葛飾区柴又の「鷺沼」だったのか?それとも習志野市内の「鷺

沼」だったのか?

 江戸時代の後半、三島政行が著した「葛西誌」(1821年)が、「鷺沼とい

うは千葉郡二之宮庄に属する地にして、今も鷺沼村と唱えり」として以来、習

志野説が踏襲されてきました。

 しかし、この説をとると、既に市川にまで軍勢を進めており、目の前の江戸

川を渡った葛西地域は真っ先に駆け付けた葛西清重親子の地盤があるにもかか

わらず、なぜ一旦習志野まで戻ったのか?が腑に落ちなくなってしまうのです。

 他方、柴又説をとると、このような不自然な行動をとらなくてもよいのです。

柴又の「鷺沼御旅館」があった場所だと考えられている場所は、現在の柴又2

丁目古録天神社から柴又3丁目柴又八幡神社の間の鷺沼です。

 果たして、どちらの説が正しいのでしょうか?まずは習志野と柴又の鷺沼に行ってみるしかありません。次回は、二つの鷺沼を訪ねます。