葛西清重は、参陣を求める頼朝の書状を受け取り、父とともに頼朝の鎌倉入

部への進軍に真っ先掛けて参陣します。その雄姿は隅田川筏渡の図に描かれて

います。

    隅田川筏渡ノ図

何せ細密描写のため、一寸見ただけではどこに描かれているのか分かりませんが、

頼朝軍の最前列に陣取っています。

もっとも、この隅田川筏渡の図は、江戸時代に描かれたものですから、果たし

てどこまで真実に迫ったものかは分かりませんが、少なくともここから葛西清重が頼朝軍の有力な部将であったことが分かります。

 治承4年(1180年)10月6日に鎌倉へ入部した頼朝は、同月16日には富士川の戦いで平維盛を敗走させ、11月には常陸国佐竹秀義を討ち、元暦元年(1184年)には、源範頼を九州へ平家討伐に向かわせ、文治5年(1189年)奥州藤原氏を征伐する、など鎌倉幕府樹立に向けて精力的に戦い続けました。清重は、これらの戦に従軍し、戦功をあげていきます。

 養和元年(1181年)には、頼朝の11名の寝所警護役の一人に選ばれ、文治5年(1189年)には、奥州総奉行に任じられ、建久元年(1190年)には、頼朝が上洛した際7人のうちに選ばれて参院の供奉をして右兵衛尉に任じられる、というように着々と頼朝の有力御家人としての地位を確立していきます。

 清重は、御家人として鎌倉に屋敷を持って幕府に仕えていましたが、勿論葛西の地にも館を構え、複数の施設を構えていたようです。

 清重が治めた葛西郡は、古代から武蔵と下総の国境地域で南北に河川が注ぎ、東西に陸上交通が貫く、交通・経済の要衝で、後に伊勢神宮に寄進され葛西御厨と呼ばれるようになりました。この葛西御厨の神域の江戸川べりにある葛西神社は、清重の信仰により、香取神宮の分霊を祀ったのが始まりとといわれ、平安末期の元歴2年(1185年)に創建されました。

       葛西神社拝殿      葛西神社神楽殿 (2)

 神楽殿を有し、伝統を感じさせる神社です。

 清重の館跡と伝わっているのが、葛飾区四つ木にある西光寺です。

       西光寺

 清重の館に親鸞聖人が逗留、帰依した清重が、浄土真宗雨降山西光寺として嘉禄元年(1225年)に創建したと伝えられています。寛永年間(1624~43年)に天台宗超越山来迎院西光寺に改めています。

西光寺には清重の墓石が残されています。

      葛西清重墓      葛西清重墓説明 

 鎌倉武士のお墓が残っていたとはと驚かせられますが、種を明かせばこのお墓、葛西氏分流の末裔で、「言海」の著者として知られる大槻文彦が明治32年に建立したものです。

清重は、文治5年(1189年)、頼朝の奥州藤原氏との戦いで軍功をたて、奥州に所領を得ることになりました。そして、六代清貞の頃に葛西を退去して奥州に移り、葛西氏は戦国時代まで存続しました。しかし、残念ながら葛西の地との縁はなくなってしまいました。