山内上杉、扇谷上杉両氏は、抗争の果て、ともに衰退し始めます。この間隙を縫って新たに台頭してくるのが、戦国大名北条氏です。

 小田原に本拠を構える北条氏綱は、大永4年(1524年)、関東進出を企てて江戸城を攻略し、大永5年(1525年)葛西城に迫りました。

 時の葛西城主は、大石石見守。大石石見守と姻族関係にあった三戸義宣が越後の上杉謙信の父親であった長尾為景に援軍を求める書状が今も残されています。

   三戸義宣文書

「山内方の後方支援がなかったので、太田美濃入道のいる岩付城(岩槻市所在)が2月6日に落ちてしまいました。最近葛西の地へ(江戸方面から)敵方が向かっています。当方から支援部隊が出ているので今のところ持ちこたえています。万一、葛西の地が落ちてしまったら上杉領国の滅亡は程ないことでしょう。」

 当時の利根川(現江戸川)の西側は、葛西城と岩付城を辛うじて上杉氏が抑えていたものの、その他の地域は殆ど北条氏に支配されているという勢力関係にありました。このような政治情勢の下で、岩付城が落とされ、葛西城にも危険が迫っている、という危険な状況を伝えているのです。

大石石見守は、武蔵守護代をつとめた山内上杉氏の有力家臣でした。大石氏の嫡流が都下府中市に根を張っていたため、石見守はこれまで余り語られてきませんでしたが、嫡流が北条氏に吸収された後も、最後まで北条氏に抵抗を続けたのでした。しかし、天文6年(1537年)、扇谷上杉氏の本拠河越城(川越市)が落城すると、天文7年(1538年)2月2日、ついに北条氏綱によって攻略されてしまいました。大永5年(1525年)の葛西城攻撃から13年後のことでした。

 葛飾区郷土と天文博物館に、戦乱に巻き込まれた葛西城の当時の様子を伝える遺物が展示されています。葛西城から発掘された女性の首の復元像です。

    斬首復顔図

正確な年代は分かりませんが、戦国時代に生きて首を討たれ、城を囲む堀に打ち捨てられていたのです。

何故よりによって女性が打ち首になったのか興味がそそられますが、この首は血生臭い戦国時代の雰囲気を生々しく伝えてくれています。

葛西城は、以後北条氏の城として、第一次、第二次国府台戦争等の戦乱に巻き込まれていきます。