北条氏は、天文7年(1538年)10月、国府台に陣取った足利公方の弟の小弓公方足利義明と安房の雄里見義堯の連合軍と戦い、勝利します。第一次国府台戦争です。

この古戦場の一つが里見公園です。

国府台望む

当時の国府台とは、南の真間山弘法寺から北の相模台城(松戸駅東側の松戸中央公園付近)まで含めた一帯を言い、里見公園に里見氏側の軍勢が布陣し、松戸城(戸定が丘公園)に上陸した北条氏側の軍勢と、相模台城付近で激戦となりました。

松戸城跡地は、明治に入って徳川慶喜の異母弟徳川昭武の戸定邸となりました。訪れたときは、丁度桜が満開で、枝垂桜が見事でした。

戸定邸正門    戸定邸枝垂桜

庭から江戸川方面を見下ろす景色も絶景です。

戸定邸庭③

相模台は指呼の間にあります。

戸定ヶ丘より相模台

聖徳大学構内に相模台合戦の碑が残されています。

今まで気が付きませんでしたが、相模台は聖徳大学の敷地になっているだけでなく、松戸中央公園や千葉地裁松戸支部の敷地にもなっていて、私たち弁護士には馴染みの場所なのです。

相模台戦績跡   裁判所松戸支部   松戸中央公園正門

葛西城は、この戦争で北条氏の前線基地になったと考えられています。

 第一次国府台戦争に勝利した北条氏綱は、古河公方足利晴氏に娘との結婚を迫り、四年後の天文12年(1543年)、娘が梅千代王丸を生むと足利家の御一家としての地位を得ることになりました。

 北条氏の権力のもとに取り込まれた足利晴氏は、少なくとも天文21年(1552年)までは、妻と梅千代王丸とともに葛西城に入部していました。葛西城は古河公方の御座所になったのです。しかし、足利晴氏は、北条氏により梅千代王丸への家督相続と自らの隠居を迫られてしまいました。

 葛西城において、弘治元年(1555年)11月、北条氏康隣席のもと、梅千代王丸の元服式が行われ、梅千代王丸は、13代将軍足利義輝から義の字を賜与されて足利義氏と名乗ることになりました。その時の様子を記録した元服次第が残されています。

足利義氏

足利義氏は、永禄元年(1558年)4月頃までは葛西城に在城したことが分かっています。

短い期間ではありますが、関東における将軍ともいうべき足利公方の御座所が葛西城に置かれていたことは、もっと知られてよいのではないでしょうか。

さて葛西城に対する北条氏の支配ですが、安定したものではありませんでした。上杉謙信が北条氏の支配を脅かしていたのです。

永禄3年(1560年)9月に越後の上杉謙信が関東に侵攻してくると、有力国衆の殆どが謙信方に付き、同年末頃には葛西城は謙信方についた岩付太田氏により攻略されたと推測されています。

だが、謙信が越後に帰国するや反転攻勢に転じ、永禄5年(1562年)4月には再び葛西城を攻略して支配下に収めました。

 以後、再び葛西城が攻略されることはなく、北条氏が滅亡するまで葛西城と葛西地域を支配下に収めることになります。

 しかし、葛西城を巡る政治情勢は、まだまだ不安定な状況が続きます。