葛西城は、天守閣があったわけでも石垣があったわけでもありませんでした。そのため、「砦あるいは館程度の小規模なものであったに過ぎまい。」とか、「国府台合戦に備えて急きょ築造された戦のための施設に過ぎない。」等ともいわれていました。
しかし、すでに見てきた通り、葛西城は古河公方足利義氏が御座していたお城だったのです。単なる砦であるはずがありません。そのことは、葛西城の遺構の発掘の結果からも明らかにされてきました。
葛西城の遺構は、低地にあるため、台地上の遺跡では残りにくい木製品などの有機質の資料が、何百年もの間、朽ち果てずに保存されてきました。
これから、その遺物を見ていきたいと思います。
初めに紹介する遺物は、武士のステータスを示す威信財の数々です。
中世の武士たちは舶来の高級な焼物を珍重し、嗜好していました。その一端は「茶入れ一つが一国と同じ価値を有する。」とした織田信長にまつわるエピソードからも窺い知ることができます。
初めの写真は、本丸から出土した元代の青花器台です。
次の写真は、本丸から出土した蓮弁を刻んだ茶臼です。
蓮弁模様の茶臼は、14世紀~16世紀にかけて認められ、全国で八遺跡でしか出土していない貴重な遺物なのです。
次に紹介する遺物は、式三献を含む饗宴を偲ばせる品々です。
式三献とは、かわらけを三枚重ね、一献で一つ目の盃に三度酒を注ぎ、二献で二つ目の盃に三度、三献で三つ目の盃に三度酒を注ぐ酒宴の作法で、武家儀礼の一つです。武家儀礼は、領主と家臣との主従関係や絆を深める装置となり、各地で催されました。
現在の婚礼の際に行われる三々九度は、式三献を引き継いだものといわれています。
折敷は、薄い板の四方を切り落とした造りの膳として用いられました。
さて、戦に明け暮れた戦国の武士達にも、当然のことながら息抜きが必要でした。茶の湯は、武士の嗜みとされ、高級武士たちが城内で頻繁に楽しんでいたようです。出土した瀬戸・美濃焼の鉄釉天目茶碗は、それを物語っています。
遺物の中には、将棋の駒、羽子板、相撲人形等、肩の凝らない遊戯類もあります。戦国時代に生きた人々も、戦の合間に、今の私たちと同じような遊びを楽しんでいたことが分かり、その人々が身近な存在に見えてきます。
それにしても、葛西城の遺構が保存されなかったことは本当に残念でなりません。