都営新宿線東大島駅から番所橋通りを南へ500メートル程行くと、小名木川と旧中川の交わる辺りに中川船番所資料館があります。
寛永年間(1624~44年)に関東一円の大改修工事が完了し、江戸城大手門から小名木川、船堀川を経て江戸川、利根川水系へつながる重要な物資の輸送路が確保されることになりました。中川番所は、延宝7年(1679年)、房総方面へ往来する船や荷物を監視するため、小名木川と旧中川の交差する中川口に設けられた関所でした。
今は、中川番所近くの旧中川・川の駅は、東京スカイツリー駅まで水陸両用のスカイダック号の発着駅とされ、庶民の憩いの場になっています。
既に下町の名所・旧跡を訪ねてシリーズの第1回目で中川船番所資料館の紹介をさせていただいておりますので、ここでは、資料館の紹介は省かせていただいて、そこから500メートル程下流の荒川ロックゲートの説明から始めさせていただきます。
荒川土手に聳えるロックゲートは、威容を誇っておりますが、その存在は、江東ゼロメートル地帯の辛い歴史と裏腹の関係になっています。
江東区・墨田区にまたがる江東ゼロメートル地帯は、昭和の初め頃、地価が安いうえ、工業用水が自家用井戸で賄えるという利点があったため工場が多数進出し、地盤沈下を招くことになりました。昭和10年代後半になるとアジア太平洋戦争の激化に伴って工場が操業を低下したため、地盤沈下は止まりました。 しかし、戦後公法の活動が再開されるに及んで再び地盤沈下が激しくなりました。
東京都は、水位低下対策として、1971年(昭和46年)から1993年(平成5年)にかけて江東東部河川整備事業を行いました。この事業は、北十間川樋門、扇橋閘門の東側から旧中川に至る下町地域の水位を人工的に東京湾の干潮時の最低水位より1メートル低い水位に低下させるものでした。
こうなると、もはや荒川と旧中川の間は最大で3.1メートルもの水面差が生じることになってしまいましたので、そのまま繋げておくことはできません。
荒川ロックゲートは、2005年10月1日、この両河川の水上交通確保と震災時の援助物資輸送路の確保を目的として造られることになったのです。
閘門はなかなか迫力があります。
階段型護岸には、親切にも観客席まで設けられており、門の開閉、水位調節の様子を見学できるようになっています。
荒川ロックゲートの上流、荒川土手の隣に大島小松川公園があります。
ここに1930年(昭和5年)から1976年(昭和51年)まで使用され、水上交通の衰微によって撤去となった小松川閘門が保存されています。
次回は、旧中川を「逆井の渡し跡」を目指して遡ります。