天皇の勅使接待の最終日である元禄14年(1701年)3月14日のことでした。勅使饗応役であった赤穂藩主浅野内匠頭長矩が、江戸城中松の廊下で高家の吉良上野介を斬り付け、将軍綱吉の逆鱗に触れ、即日切腹を命じられました。赤穂四十七士の吉良邸討ち入りの発端となった有名な刃傷事件です。
それからほぼ21カ月後の元禄15年12月14日、正確に言えば15日早朝、四十七士は吉良邸に討ち入りました。
国民的ドラマ忠臣蔵のもととなった史実が生まれた瞬間です。
さて、吉良邸を含む両国界隈は、四十七士らが仮住まいを設け、目的達成のための活動をした拠点でもありました。
まず、吉良邸を訪ねます。
本所松坂町にあった吉良邸は、討ち入り当時、東西134メートル、南北63メートル、敷地面積2,550坪の広大な邸宅でした。残念ながら、現在は30坪弱の小さな一角が残されているだけです。
打ち入り当夜、吉良邸には150名程の侍や中間などが住み込んでいたにも関わらず、吉良家側は、死者17名、負傷者28名という多大な被害を受けました。それに対して、四十七士側の重傷者・死亡者は一人も出ませんでした。
吉良邸には、上野介の長男が上杉綱憲として上杉家を継いでいたため、上杉家から清水一学をはじめとする名だたる剣士が詰めていました。何故3倍以上の人数がいたにもかかわらず、吉良家側が一方的に被害を受けてしまったのでしょうか?
茶会後眠り込んでいたところを決死の四十七士に踏み込まれたから、というだけでは説明できません。吉良屋敷内の小屋では、中間87名、足軽7名が生き残りましたが、彼らは「火事だ。」という言葉で起きてみると、小屋一軒当たり3~4人の槍を構えた見張りが立っており、戸を開けて外を覗いた者は手傷を負わされたので、外に出られなかったと述懐していたと言われています。四十七士側の用意周到な作戦が功を奏したということができるでしょう。
吉良邸入り口右側には、清水一学をはじめとして上野介を守って討ち死にした吉良家側の家臣二十士の慰霊碑が置かれています。
石碑をよく読んでみると、「吉良家の犠牲になった」との記載があります。悪いことをした吉良上野介の犠牲になったと読めてしまいます。果たしてそうなのでしょうか?それでは赤穂浪士に肩入れし過ぎではないでしょうか?この点については、後で触れたいと思います。
狭い吉良邸跡に足を踏み入れると、吉良上野介の彫像が置かれています。
吉良邸跡から西側に130メートル余り歩くと、吉良屋敷裏門の説明版があります。
2,550坪もの大邸宅吉良屋敷をイメージしようと努力しながら歩いては見たものの、中小のビルに囲まれた一帯からそのようなイメージを紡ぎ出すことは、容易なことではありませんでした。残念ながら、まだまだ想像力が鍛え足りないということですね。