赤穂浪士ゆかりの地を巡ってきましたが、果たして浪士たちは義士と言えるのでしょうか?当時の学者(儒者)の意見は、義士肯定論と否定論の真っ二つに分かれていました。山崎闇斎門下の佐藤直方、荻生徂徠らが、義士否定論を、室鳩巣や山崎闇斎門下の浅見絅斎等が義士肯定論を唱えました。
<荻生徂徠> <室鳩巣>
両論の分岐点は、刃傷事件をどう評価するのかにあります。
内匠頭は「私的な遺恨から、前後も考えずに刃傷に及んだが、自分は乱心ではない。」と述べ、上野介は「自分は恨みを受ける覚えはない。内匠頭は乱心したのだろう。」と述べていました。
松の廊下での刃傷事件は、内匠頭が突然背後から斬り掛かったもので、両者とも喧嘩ではないと主張しており、喧嘩両成敗が適用される場合ではありませんでした。
そのような場合でも、内匠頭の主張の通り、遺恨が原因で刃傷事件が起きたとすると、無理もない遺恨か、逆恨みかなどが詳しく吟味され、上野介に無礼が証明されれば、上野介にも処罰が下されるはずでした。
しかし、内匠頭は遺恨の内容を一切明らかにしませんでした。内匠頭が乱心のふりをしたとすれば、刃傷の責任は本人のみが負い、赤穂浅野家は再興され、上野介も単なる被害者で済んだかもしれません。それなのに、敢えて「乱心ではない。」と主張してお家断絶の道を選んでしまったのです。その遺恨の大きさが覗われるものの、今もってその心の闇は、分かっておりません。
当事者のこのような主張を踏まえて、ほぼ全ての論者は、内匠頭が重要な国家儀礼の場で刃傷に及んだことが公法に違反したと考えました。従って、焦点は、内匠頭が抱いた遺恨をどう評価するのかに掛かってきます。
義士肯定論者は、内匠頭が抱いた遺恨が無理からぬものと想定して、上野介を敵とし、彼を打ち取った浪士を義士とします。
義士否定論者は、刃傷事件の原因が、喧嘩でもなく、内匠頭の遺恨が無理のないものと認められたわけではないので、上野介は敵ではない。浪士らの行動は、主君の邪志を継いだ不当な行動となります。
理屈からするならば、義士否定論に軍配を上げざるを得ません。
それなのに義士肯定論が圧倒的に支持を得ていました。元禄時代は町人文化が花開き、忠義という武家の道徳が形骸化しつつある時代でした。そんな世の中で忠義のために命を捨てるという潔さが、拍手喝采を受けたのでしょう。
ところで、肯定論が圧倒的に支持を受けたと言っても、武士と一般庶民ではその理由には、些かズレがあったと思われます。武士にとって忠義はその道徳の中心にあるものでしたので、その理由はよく分かります。しかし、一般庶民にまで忠義を称える観念が広く行き渡っていたとは、思われません。庶民の支持にはもう少し別の理由もあったと思われます。
時は第5代将軍綱吉の時代。生類憐みの令、鋳貨改悪等の悪政で庶民の不満は高まっていました。庶民は、浪士たちの「綱吉が、内匠頭のみを処分し、上野介を処分しなかったのはおかしいから、私たちは敵討ちをした」とする言い分に、綱吉の処断に対する異議申し立てを嗅ぎ取って、綱吉の悪政に対する抗議の気持ちから彼らの行動を支持した、と主張する論者(作家丸谷才一)もいます。
丸谷説は、些かうがちすぎではないか?とのご意見もあるかもしれませんが、あながちそうとばかりも言えないと思われます。
赤穂浪士の行動は、武士道精神を体現するものとして、日露戦争時、アジア太平洋戦争時に国粋主義の立場から大いに称揚されました。しかしながら、時の政府は正面切って、浪士の行動を称賛することはできませんでした。彼らは徒党を組んで徒党禁止の国法を犯した大罪人であり、彼らの行動を全面的に肯定することは、テロ行為とも評価しえる違法行為を容認することに繋がってしまうからです。
それはとにかく、赤穂浪士が国民的ヒーローになっていく過程で、上野介は悪役とみなされていきます。その端的な現れを、よりによって吉良屋敷に残る吉良家忠臣二十士の慰霊碑に見ることができます。慰霊碑には「吉良家の犠牲になった」との碑文があるのです。本来ならば、「赤穂浪士の犠牲になった」とか「討ち入りの犠牲になった」とすべきではないでしょうか。世の風潮に流されたと思わざるをえません。