葛飾北斎は、1760年(宝暦10年)9月23日に、本所割下水で生まれました。
当時、本所には南と北の二つの割り下水がありましたが、単に割下水というと南割下水を指しました。
川幅は1~2間(1.8~3.6メートル)程度、汚水を流すための水路ではなく、低湿地で水はけの悪い江戸の町の排水のために造られた水路でした。
<明治時代の南割下水>
南割下水は現在では、埋め立てられて北斎通りとなっています。
その通り沿いの緑町公園脇に墨田区教育委員会が設置した葛飾北斎誕生の地の説明板があります。
<北斎生誕の地説明版>
北斎の出自については、川村某の子だとか幕府御用の鏡師中島伊勢の子だとか言われ、晩年の北斎本人は「俺の曽祖父は赤穂浪士に討たれた吉良方の武士小林平八郎だ」と自慢していたようで、真実は藪の中です。
割下水の両側の両国よりには武家屋敷が立ち並び、錦糸町寄りには一般庶民の町家が多かったようですから、両国寄りで生まれたのならば武士の子、錦糸町寄りに生まれたのならば町民の子、として産まれた可能性が高いと言えそうです。
因みに葛飾北斎誕生の地の説明板のある場所は、両国寄りと言えるでしょうが、説明版のある場所が誕生の地というのもあくまで推測の域を出ていませんので、北斎の出自の決め手にはなりません。
緑町公園の一角に、2016年11月22日、すみだ北斎美術館が開館しました。
この美術館は、世界有数の北斎作品コレクター、ピーターモースのコレクションを遺族から一括購入した約600点の浮世絵、浮世絵研究の第一人者楢崎宗重が墨田区に寄付した約480点の浮世絵を中心に展示されており、北斎を単独のテーマとした世界初の常設美術館です。
<すみだ北斎美術館>
美術館を一巡りして、北斎ゆかりの地巡りを始めましょう。
北斎通りを西に、東京東信用金庫本店裏手の榛稲荷神社に向かいます。
<榛稲荷神社>
北斎は80歳を超えて、この神社のすぐそばで娘のお栄とともに暮らしました。
その生活の様子を、弟子の露木為一が「北斎仮宅の図」に描いています。
この絵が描かれた当時、北斎は83歳、娘のお栄は40歳前後と言われています。
<北斎仮宅の図>
ここでの生活ぶりを明治時代の浮世絵研究者飯島虚心は、「蜜柑箱を少し高く釘づけになして、中には、日蓮の像を安置せり。
火鉢の傍らには、佐倉炭の俵、土産物の桜餅の籠、鮓の竹の皮など、散らし、物置と掃溜と、一様なるが如し」と記しています。
殆ど掃除もしない雑然とした部屋に親子で同居していた様子がうかがわれます。
北斎はその生涯に93回も引っ越しをしたと言われています。
その理由は掃除が嫌いというところにあったようですが、掃除が嫌いな理由も、親子ともども絵を描くこと以外に余計な時間をとられたくなかったからと言われており、こうなると呆れるというより感心してしまいます。
すみだ北斎美術館に、「北斎仮宅の図」をもとに製作された北斎親子の蝋人形が飾られています。
<北斎親子の蝋人形>
なかなかリアリテイがあり、北斎芸術の人間臭い舞台裏を垣間見た気分にさせられます。
次回は、回向院へ向かいます。
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