榛稲荷神社から南西方向へ10分位歩くと、回向院に到着します。
<回向院>
北斎は、この寺で大布袋の描画をしたと言われています。残念ながらその描画は残っていません。
1817年名古屋の大須で120畳の大達磨の描画をした際の模様を描いた図が残っていますので、この大達磨で、大布袋を想像してみてください。
<大達磨>
因みに、この大達磨が書かれた西掛院周辺は前日から縁日のごとく屋台の店が連なり、当日は大群衆が押し掛けたと言われています。
回向院から総武線を潜って北側に10分程歩くと旧安田庭園があります。
本庄氏の潮入回遊庭園であったものを安田財閥の創始者安田善次郎が買い取り、東京市に寄付、現在は墨田区の管理となっています。
<安田庭園>
その庭の一角に駒止石があります。
<駒止石>
北斎は、1631年(寛永8年)、隅田川一帯が大洪水になり、時の将軍家光が状況調査を命じるも、誰も尻込みして名乗り出ない。
その中、旗本阿部豊後守忠秋が、隅田川に馬を乗り入れて、巧みに馬を操り、被害調査を行った。
そして、馬を止めて休息した石が駒止石であった、との伝承に彩られた駒止石を馬尽シリーズの摺り物の一枚として描きました。
<駒止石>
因みに、馬尽シリーズの摺り物は、文政年間(1818年~1830年間)正月の配りものとして製作された一枚摺りの豪華な浮世絵でした。
安田庭園から隅田川東岸に出て、川風に吹かれながら蔵前橋の下を潜り12~3分程北上すると、春日通りに出ます。
春日通りを左折して厩橋を渡ります。
厩橋から直線距離で1,000メートル程、北西に歩くと浄土宗の瑞亀山誓教寺があります。
このお寺に北斎のお墓があります。
<誓教寺>
<北斎の墓>
お墓には「川村氏」と書いてありますので、このお墓の存在は、北斎川村氏出身説の根拠の一つになっています。
この墓石には「画狂老人卍墓」と大書し、右側面に辞世の句「ひと魂でゆく気散じや夏の原」が刻まれています。
「あの世に行ったら人魂となって夏野原をふわりふわり動き回って憂さ晴らしをしよう」というとぼけた川柳です。
いかにも北斎らしい辞世ではあります。
このお寺には、北斎の「紙本墨画淡彩達磨図」と「絹本着色骸骨図」の二つの肉筆画が残されています。
<紙本墨画淡彩達磨図>
この図は、達磨の全身を横から描写するという珍しいもので、書画会の席上で即興で描かれたようです。素人にもその並々ならない技量が伝わってきます。
右下に「画狂人北斎画」と墨書されているので、北斎がこのように名乗っていた享和元年(1801年)から文化3年(1806年)の間に描かれたと考えられます。
<絹本着色骸骨図>
この図は、全体的に墨画風なのですが、灯篭の房と周縁部にみられる鮮やかな朱色の使用が幻想的な絵に生々しさを生んでいます。
また、灯篭の吊り具は、北斎の当時の名「卍」型に描くなど遊びの要素も加え、憎いほど気配りが行き届いた作品です。
右下の落款「己酉」から嘉永2年(1849年)北斎90歳の時の作品と分かります。
これら2作品は、毎年4月18日の北斎忌の日だけ一般公開されています。
誓教寺から北東へ、雷門、浅草寺を通り過ぎて、直線距離で1,300メートル位行くと北斎終焉の地と言われる遍照院があります。
<遍照院>
今はモダンなコンクリート造りのお寺になっていますが、かってこの寺の境内西側に「狸長屋」と言われた長屋が建っていました。
北斎は、その長屋の一角で93回の引っ越しにピリオドを打ち、亡くなったと言われています。
次回は、三囲神社を目指します。
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