「♪お江戸日本橋七つ立ち」と唄われた日本橋の北岸には魚市場が広がり、江戸庶民の台所として賑わっていました。
<川の手前が日本橋魚市場>
今では高速道路が橋の上を走り、無残としか言いようのない現状にあります。
<日本橋現状>
2020年の東京オリンピック後に、この高速道路地下化工事が着工される予定とのこと、早く重しから自由になった日本橋を眺めたいものです。
日本橋を南北に貫く中央通りは、かって「本町通り」と呼ばれ、芭蕉も「実や月間口千金の通り町」と一句ひねっているとことからもわかる通り、江戸でも有数の高級商店街でした。
小田原町の南側に広がる大舟町、安針町には魚店、日本橋三越の地には呉服店の「三井越後屋」、少し北側の本町には薬種商・・・などの大店が軒を並べていました。
<浮世絵日本橋>
現在でも中央通りの日本橋三越周辺は、老舗とコレド日本橋のような巨大なショッピングセンターが共存する賑やかな一帯になっています。
<現在の日本橋付近>
さしずめ芭蕉の裏店は、今風に言えば都心の一等地の賃貸マンションといった趣だったかもしれません。
ところで、芭蕉というと生涯独身といったイメージがあります。それだけに、芭蕉は小沢太郎兵衛の裏店で独り者として生活していたのか?一家を構えていたのか?も気になりますが、どうも裏店時代は寿貞という女性と一緒に暮らしていたようです。
幕末の蕉門研究家で刈谷藩の家老を勤めた浜田岡堂の「蕉門人物便覧」に、芭蕉の「愚妻儀このたびは本復おぼつかなく」との書簡があった旨の記載があります。この書簡は、芭蕉裏店時代のものと考えられており、愚妻とは後に芭蕉が出家した際に尼となった「寿貞」のことを意味していると考えられています。
寿貞尼には、長男の二郎兵衛、長女のまさ、次女のおふうの三人の子がありました。この女性が芭蕉の妻であったのかについては、意見が分かれています。
寿貞は芭蕉に妾奉公をしていたとの説があるからです。この説は、芭蕉の門人志太野坡が「寿貞は芭蕉の若い時の妾だ」と言っていたとの聞き書きを根拠とするもので、「悪党芭蕉」で読売文学書を受けた作家の嵐山光三郎も妾説の提唱者の一人です。
芭蕉自身が寿貞を「愚妻」と呼んでいたこと、芭蕉が息子の二郎兵衛とともに1694年(元禄7年)に最後の旅に出た後に寿貞が深川芭蕉庵に移り住んでいたこと、この旅先の京都嵯峨の落柿舎で寿貞尼の訃報を受け取った芭蕉が、「寿貞無仕合せもの・・・」との慟哭の書簡を残していることなどからすると、寿貞はやはり妻であったと思いたくなります。
続く