日本橋で俳句の宗匠として、それなりの名声を得て安定した生活をしていた芭蕉が、どうしてそのような生活捨てて、寂れた田舎の深川の地に引っ越すことにしたのか?
この点は、大きな謎となっています。それまでの俳諧の否定説、宗匠生活の否定説、寿貞と甥の桃印の駆け落ち説、経済的破綻説、火事による被災説など、諸説紛々の状況にあります。
専ら芸術上の理由を根拠とするのは、あまりに格好良すぎます。駆け落ち説は、スキャンダラスで文学者の想像力を掻き立てるからでしょうか、嵐山光三郎がこの説を採っています。
火事による被災で深川に転居したが、そこでの避難生活の中で侘びさび的な世界を発見していったといった辺りが真実に近いのではないでしょうか。
芭蕉は、深川でそれまでの撫で付け髪を切り落として僧形になり、家族と離別して草庵に入りました。といっても仏門に入った訳ではありませんでした。
川べりの芭蕉庵の跡地には、現在芭蕉稲荷神社が建てられています。
<芭蕉稲荷神社>
余りに狭い一角にちまちまとした石碑が置かれた小さな神社で、そこからは高い堤防に妨げられて隅田川も全く見ることはできません。
この神社そばの堤防上の狭い一角に芭蕉庵史跡展望庭園があり、芭蕉翁像が隅田川を見つめています。この翁像、午後5時には回転して向きを変え、夜間にはライトアップされ、と訪れる芭蕉ファンを楽しませてくれています。
<芭蕉庵史跡展望庭園> <芭蕉翁像>
展望庭園から広重・北斎の浮世絵で有名な萬年橋を渡って小名木川を越えます。
小名木川は、しばしば芭蕉が船を浮かべて楽しんだところで、小名木川橋の「小名木川五本松」の木陰に舟を泊めて「川上とこの川しもや月の友」の句も読んでいます。
<小名木川五本松>
小名木川を渡って清洲橋通りを東に向かうと臨川寺があります。
<臨川寺>
芭蕉は、深川の草庵に入った1680年(延宝8年)冬頃より、鹿島の根本寺の住職仏頂禅師に俳句を教え、その傍ら禅を学びました。
仏頂禅師は鹿島の根本寺二十一世住職でしたが、寺領を鹿島神宮に奪われ、それを取り返すべく江戸寺社奉行に訴えに来ていました。その時の江戸の住まいが臨川庵(後の臨川寺)で、仏頂禅師はここに居を構えて9年間の訴訟を戦いました。勝訴して根本寺に戻っていきましたが、この間芭蕉と親交を深めました。
根本寺に戻った仏頂禅師の「月を見にいらっしゃい。」との誘いの手紙に従って、芭蕉は1687年(貞享4年)8月14日、小名木川、行徳を経由して鹿島詣でに出かけました。その時の旅紀行が「鹿島紀行(鹿島詣)」です。
続く