大分寄り道をしてしまいました。歩みを進めましょう。弥勒寺から清澄通りを南下して新大橋通りを左折して、菊川まで歩くと鬼平の屋敷跡に着きます。
史実によれば、1764年(明和元年)、鬼平19歳の時、長谷川家は一家挙げて本所三つ目のこの場所に移転し、鬼平、その父宣雄ともども、この地を火付盗賊改方の役宅としています。
鬼平犯科帳では、鬼平は清水門外の役宅に住んだ設定になっていますが、これは虚構です。役宅が清水門外の内藤伝十郎屋敷跡に移転したのは、遥か後の天保14年(1843年)のことなのです。
この地は、当時吉原に匹敵する岡場所として賑わったところです。17歳のときに迎え入れられた入江町の鐘楼前の屋敷(小説上の住まい)とそう遠くはありません。鬼平が放蕩三昧の生活を送った場所の一つであったでしょう。
鬼平を語る際に忘れてならないのが、「石川島人足寄場」です。
森下駅まで戻って、「石川島人足寄場」まで歩くとすると些か距離があります。月島駅まで大江戸線に乗って、そこから10分ほど歩くことにします。
寛政2年(1790年)当時、江戸及び関八州の地内から大量に無宿人が生まれ、町村社会が分解するとともに、その無宿人が大量に江戸へ流れ込むようになっていました。
幕府でも無宿人対策に乗り出さざるを得なくなり、老中松平定信は、有志に無宿人の収容施設について意見を求めました。その結果、寛政3年(1791年)、鬼平の「寄場創設の建議書」に基づいて、「石川島人足寄場」が造られることになり、鬼平は、そこの責任者「寄場取扱」になりました。
無宿人対策の責任者など花形ポストでも何でもありません。誰も積極的に「俺がやる」と言って手を挙げるような人物はいませんでした。それなのに、鬼平は、なぜ誰一人、寄場創設の建議を行ったのでしょうか?
「本所の銕」と言われたように社会の裏を見て育っていたので、無宿者の心情を肌で知り尽くしており、座視するに忍びなかったからではないか!とするのが重松説です。放蕩と火盗改という任務を通して、犯罪の根本原因が失業と飢餓にあることを認識していたことが、寄せ場創設の提案の背景にあったことは間違いありません。
石川島の地が選ばれた理由は、隅田川の川幅が広がった河口にある小島なので逃亡防止に格好の地であったからと言われています。
さて、肝心なのは、人足寄場があった場所です。
浮世絵と照合してみると、現在の佃二丁目大川端リバーシテイ周辺であったようです。
とはいえ、高層マンション群を眺め回しながら、寄せ場の跡地に思い巡らすのは、相当の想像力が必要になります。
現在の月島は、かっての石川島とその南の佃島が一体化し、佃島の南側がどんどん埋め立てられてできた地域です。
石川島灯台が残されている周辺に人足寄場が置かれていました。石川島とその南側の佃島との境目の佃堀と、その周辺の老舗の佃煮屋が、昔の名残を留めています。
「石川島人足寄場」の責任者になった鬼平を悩ませたのは、運営資金問題でした。当時の幕府財政は、天明の大飢饉後で逼迫していました。設立当初の予算は建設費を含めて米500俵、金500両、次年度からは米300俵、金300両でしかなかったのです。
江戸中後期の一両の価値は3~5万円、一俵の価値は1.5~2.5万円位だったので、一両の価値を5万円、一俵の価値を2.5両として、現在の貨幣価値に換算すると設立年度が金3,750万円、次年度が2,250万円にしか過ぎません。鬼平退任直後の人足寄場の収容人員は132名だったのですから、この程度の予算では到底施設の運用ができなかったことは、誰の目にも明らかでした。
ここで、鬼平は、当時の役人としては驚くべき手法を採用しました。当時、定信は、天明の大飢饉後の物価上昇に頭を痛めていたので、鬼平が「江戸の主だった商人を町奉行所に呼び集めて、物価を下げるように説諭を加えたい。」とのお伺いを出するや、「それは宜しかろう。」と鬼平の議を容れてしまいました。
定信は、商人たちを奉行所に集めて懇々と説諭すれば、物価は下がると素朴に信じていたのです。
鬼平は、町奉行所に江戸の主だった商人を呼びつけ、町奉行も同席の場で「物価を下げよ」と申し渡しました。商人も、一応お偉いさんの顔を立てなければなりません。経済原則を無視した命令が長続きするはずはないのですが、とりあえず一時物価は下がります。
その一瞬をとらえて、鬼平はあらかじめ幕府で安く買い上げてあった銭3,000両分を一両日で売り払って一両につき500分の利ザヤを稼いでしまったのです。要するに、当時の武家では奇想天外、大博打ともいうべき銭相場に手を出して大儲けしまったのです。とはいえ、鬼平の名誉のために付け加えれば、鬼平はこれによって一銭の私服も肥やしていません。この利益をもって人足寄場の運営費用に充てたのです。
これは明らかに相場操作で、現在ならば犯罪行為と言われても反論できませんが、この出来事は、はしなくも、鬼平が経済に精通していたことと定信が全くの経済音痴で貨幣経済の発展に対応できない古いタイプの政治家であったこと、を証明してしまいました。
「石川島人足寄場」は、無宿人の「懲罰施設」ではなく、社会復帰のための「教育施設」にしようとするものでした。社会復帰のための訓練には、大工・左官・炭団(たどん)造り・草履作り・紙漉き・藁細工・結髪などの職人仕事、手仕事を覚えられない者のための米つき・油絞りなどの力仕事、百姓を望む者への筑波郡上郷村の寄場における農業などがあり、人足には仕事量に応じて賃金を支払いました。「石川島人足寄場」出所者に対しては、就職のあっせんまで行いました。
「石川島人足寄場」での産物の市場戦略にも力を注ぎ、寄場製の炭団は火力も火持ちも良いと評判になって注文が殺到したともいわれています。
このように「石川島人足寄場」は、ヨーロッパに先駆けて因果応報主義の旧来の刑罰思想に捕われない、現代の雇用政策、福祉政策の魁ともいえる手法を取り入れたものでした。
ヨーロッパの真似ではない独自な制度を封建時代に作り上げた先見性は、高く評価されています。この先見性は、鬼平の放蕩三昧の生活から身に着いた弱者への思いやりから生まれたものであるところに、何とも言えない魅力を感じます。
残念ながら、鬼平は、「石川島人足寄場」の運営が軌道に乗った1792年(寛政4年)、創設からわずか1年半で、その取扱いを免じられてしまいました。
今では、石川島と佃島が合体した月島は、一件何の変哲もないビル街ですが、もんじゃ焼きの店が密集する地域として有名です。そして、もんじゃ横丁に入ると、あちこちに小さな路地が入り組み、得も言われぬ下町情緒を醸し出しています。一度足を踏み入れてみてください。
つづく