鬼平は、多くの人に愛されました。だが、必ずしも立身出世をしたわけではありません。
「火附盗賊改」本役の在任期間は、天明8年(1788年)10月から死去する寛政7年(1795年)5月まで足掛け8年もの長きにわたります。「火附盗賊改」は役得少なくして出費の多い役職で、大身で内福の旗本でないと勤まらないと言われています。僅か400石の鬼平が8年にもわたって「火附盗賊改」を勤めたのは異例なことでした。普通は、「火附盗賊改」を2~3年勤めると京都・大阪の町奉行、奈良・堺の奉行などに栄転になるはずです。現に、平蔵の父も、「火附盗賊改」を1年ほど勤めただけで京都西町奉行に栄転しているのですから。
それでは、何故、鬼平が出世できなかったのでしょうか?
鬼平の役人人生の前半は、田沼政治の時代、後半は定信の時代です。ここで
田沼時代と定信時代の政治的背景の違いを見ておくことが必要と思います。
<田沼意次> <松平定信>
田沼意次は、1772年(安永元年)に老中に就任するや、重商主義政策をとり、幕府の財政再建のために株仲間に営業を独占させるなどして税収を増やそうとしました。
ところが、賄賂政治の横行、物価の騰貴、年貢の引き上げが起こり、商品経済から取り残された農民層の深刻な反発を招くようになりました。物価高の中でベースアップなどない旗本や御家人の台所も、火の車になりました。
このような状況に追い打ちをかけるように天明の大飢饉が起こり、商人はあくなき利益を追い求めて、米や麦を買い占めました。そのため、民衆が特権商人を襲うなどの事件が頻発して幕藩体制に深刻な動揺を引き起こしました。このような中で1786年(天明6年)、田沼意次は失脚してしまうのです。
松平定信は、田沼失脚後の1787年(天明7年)老中首座に就任し、重農主義に基づく寛政の改革を推し進めます。その当初は「文武両道左右衛門世直殿」と大歓迎されました。
しかし、士風の振起と綱紀の粛正、寛政異学の禁止(朱子学以外の学問の禁止)、政治批判の禁止を断行し、庶民にも倹約を求めましたので、社会に閉塞感が強まりました。
その結果、江戸の町では、こんな狂歌が流行りました。
「世の中に蚊ほどうるさきものはなし、ぶんぶ(文武)というて夜も寝られず」
「白河の清きに魚もすみかねて、元の濁りの田沼恋しき」
定信は、清廉潔癖かもしれないが、儒教的で、ゴリゴリな保守主義者だったのです。
他方の鬼平です。定信が老中となった1787年(天明7年)の天明の打ち毀し暴動を先手弓組頭として鎮圧して無政府状態にあった江戸の治安を一気に回復する大活躍をして、江戸市中にその名が知れ渡り、その年「火附盗賊改」加役に任ぜられ、その翌年本役に任ぜられました。ここまでは言うことない出世コースを歩んでいました。しかし、そこから鬼平の出世はパッタリ止まってしまいました。
ここら辺の事情について、法制史家の瀧川政次郎氏は、大要次のように言います。
「定信は、小心翼々として、先人の例に違わざらんとする保守主義者。それに対して、平蔵は、事に当たるや、頗る積極的、精力的で、先例に囚われることなく、決断流れるがごとき闊達な江戸っ子肌の豪傑です。定信は、田沼意次が嫌いであったように平蔵のこのような性格が嫌いであったようだ。」
「平蔵に対する嫌悪の情は、定信の自叙伝ともいうべき『宇下人言』の平蔵についての書きざまに露骨に現れている。『宇下人言』は旗本の士、及びおのれの家臣を呼ぶには、敬称を用いずに『岡田清助、瀬名源五郎、沢勘解由、吉村又市』の如く、呼び捨てであるが、なおその氏と名とを現わしている。然るに平蔵を呼ぶに際しては、『いずれ長谷川が功なりけるが』というが如く、その姓のみを呼び捨てにするか、『長谷川なにがしが』というようにわざとその名を現わさない。『長谷川なにがし』は平蔵を貶めて呼ぶ呼称である。」
「平蔵の相場師まがいのなりふり構わぬ強引な資金調達のうわさが、定信の耳に達して却って不興を招き、定信が平蔵を田沼的な清廉でない役人と判断したことに起因する。」
要するに定信と鬼平では、その政治姿勢と性格において、水と油だったとしか言いようがありません。
もっとも、このように鬼平を好いていなかった定信も、「寄場が創設されたので、現在では無宿者の数が減少した。以前は各地の橋ではその左右に並んでいたが、今は見られなくなった。泥棒も減った。・・・その結果、幕府の財政支出も大幅に減った。いずれも長谷川の功績であるが・・・」と述べるなど、一定その業績を評価していたのは、鬼平にとってせめてもの救いではあります。
ここで庶民の鬼平に対する評価を見てみましょう。定信とは全然違っていました。
江戸時代の風俗関係の稀書を集めた叢書(続燕石十種第一巻・四壁庵茂蔦「わすれのこり」)には、次のような記載があります。
「本所花町に、火付盗賊改長谷川平蔵殿勤役中、賞罰正しく、慈悲心深く、頓智の捌き多し。名高き稲葉小僧といふ賊も、その手にて召し捕られたり、人々今の大岡殿と称し、本所の平蔵様とて世に隠れなし」
当時の人々が鬼平を人情に厚く、慈悲深い名裁判官と尊敬したことが窺われる記述です。上司には恵まれなかったものの、世間は鬼平の良さを分かってくれていたのです。
こんな庶民の評判は将軍の耳にも届いていたのでしょう。1795年(寛政7年)6月22日、重病に陥った平蔵は、十一代将軍家斉から貴重薬の瓊玉膏(けいぎょくこう)を賜る栄誉に浴し、同月26日数え年50歳で亡くなりました。
完