1941(昭和16)年12月10日の真珠湾の奇襲攻撃で始まったアジア太平洋戦争。初めの半年近くは快進撃でしたので、軍部は米英戦争など朝飯前という驕慢な態度を持つようになっていました。そんな軍部の影響を受けた作家の一人亀井勝一郎も、「勝利は、日本民族にとって実に長い間の夢であったと思う。・・・維新以来我ら祖先の抱いた無念の思いを、一挙にして晴らすべきときが来たのである。」と真珠湾攻撃の成功を大喜びしたように、国民も初戦の勝利に大いに沸いてしまいました。

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 亀井の言う無念の思いとは、ペリーによる武力の威嚇によって開国を迫られて以来の思いを意味しています。

しかし、こんな喜びに浸っていられた時期は、ほんの束の間でしかありませんでした。1942(昭和17)年6月ミッドウェイ海戦に敗れて、日本は戦闘の主導権を失いました。これは、短期決戦により有利な講和に導くという開戦当初の目論見が狂ってしまったことを意味します。以後、日本は、物量では到底かなわないアメリカとの間で、恐れていた物量対物量の消耗戦に突入せざるを得なくなりました。

1943(昭和18)年7月6日、日本軍は、ソロモン諸島のガダルカナル島での戦いにありったけの戦力を投入したにもかかわらず敗退して、同島を撤退。

以後の戦いは、防戦一方になっていきました。

この頃の市井の生活を見てみます。1944(昭和19)年度の軍事費は、実に国家予算の90.5%の735億円にも達していました。常軌を逸した話です。

「欲しがりません勝つまでは。」の大合唱で、もはや「普通の生活」など夢物語になってしまいました。

そして、1944(昭和19)年7月6日のサイパン島の玉砕は、日本に、もはや勝利がないことを決定づけてしまいました。

 それだけではありません。マリアナ諸島に位置するサイパンが陥落したことは、サイパンを飛び立った長距離爆撃機B29によって東京が空襲の危険に晒されるようになったことを意味しました。

 早速、1944(昭和19)年11月1日、サイパン島を飛び立ったB29が東京上空に姿を現しました。それ以後、ハンセル少将指揮下のB29は、22回に亘って延べ2,148機出撃し、合計5,000トンの爆弾を投下しました。

幸いなことに米軍は、主目標11ヶ所のどれ一つとして壊滅することができませんでした。

 これは本来喜ばしいことなのですが、かえってこれが前代未聞小野大空襲被害の引き金になってしまいました。アメリカ空軍のカーティス・ルメイ少将の登場を招いてしまったのです。同将軍は、ハンセル少将の「爆弾の騎士道」をかなぐり捨てました。目的のためには手段を選ばず、焼夷弾の低空から市街地へ向けての無差別爆撃を始めたのです。その手始めが1945年3月10日の東京大空襲だったのです。

 1945年3月10日午前0時15分、空襲警報発令。それから午前2時37分までの142分間に、マリアナ諸島グアム、サイパン、テニアンから飛び立ったアメリカ空軍第21爆撃隊司令官ルメイ少将指揮下の334機の長距離爆撃機B29は、東京の下町を空襲しました。

 杉並区阿佐ヶ谷に住んでいた当時14歳の少年だった吉田洋さんは、その時脳裏に刻み込んだ記憶を絵にして残しています。

 吉田さんは、「B29は下町全域を焼く炎に照らし出されて銀色に輝いており、焼夷弾を落とす弾倉まで肉眼で視認できるほど低い高度を飛んでいた。」と言います。B29が平気で低空飛行をしていたのは、もはや日本軍には反撃の余力がないと見透かされていたとしか考えられません。

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 また、1932(昭和7)年生まれで、向島区寺島1-155に住む国民学校高等科1年生だった作家早乙女勝元は、姉が発した言葉の記憶として次のような一節を書き記しています。

「真紅に染まった空に、黒煙は濃霧のように流れ、おびただしい火の粉がいっぱい。それはまるで火の粉の猛吹雪だ。B29は巨大な火柱の上を、悠々と旋回しながら、次々と焼夷弾をぶちまけていく。ピカッと空にきらめく青い閃光。とたんに無数の光跡が尾をひいて黒い屋根の上に吸い込まれ、また新しい火の手がどっと上がる。『まあ、きれい!』と姉が場ちがいな感嘆の声を上げたのを、私は不思議に記憶している。」(早乙女勝元「東京大空襲」)

空襲史上空前の惨劇の幕開けも、子どもの目からすると花火大会開始の打ち上げ花火と変わらなかったのです。歴史的瞬間とは、得てしてこんなものなのでしょうか。

これから東京下町地域で空襲の直撃を受けながら九死に一生を得た皆さんの体験記録などを手掛かりに、空襲の被害者が逃げまどった現場に足を運んで空襲の爪痕を確認していきます。その上で、皆様とともに精一杯想像力を働かせて、空襲の追体験をしてみましょう。

                          つづく