資料センターからは、猿江恩賜公園を目指し、再び横十間川親水公園に入ります。水郷の町、江東区の水辺の散歩も満喫して下さい。
ほどなく、小名木川クローバー橋を渡ります。この橋は、横十間川と小名木川の交差路の四隅をクローバー形の橋で繋いでいます。自然の川が十字に交差するなどありえません。この橋は二つの川が運河として造られていたからこそつくることができた、珍しい橋なのです。
この橋を渡って横十間川を少し北上すると、間もなく猿江恩賜公園です。
この公園、江戸時代に幕府公認の貯木場になり、1932(昭和7)年、南側が猿江恩賜公園とされて、大空襲の日を迎えることになりました。
防空訓練では、深川区(現江東区)毛利、住吉周辺の住民の避難場所は恩賜公園ないし東川国民学校とされていましたので、大勢の住民がこの公園に逃げ込もうとしました。
住吉町に住み、40歳の警察官だった小沼政雄さんは、当時の様子を、こう述べます。
「森下を経て恩賜猿江公園に避難し始めたころ、行く先の公園の手前住吉町一、二丁目電車通り両側に焼夷弾の投下。そのため付近一帯は火の海になった。そのため避難する場所に行くことが不可能になってしまった。」
(東京大空襲・戦災史第1巻289ページ)
電車が走っていた通りは、都電の走っていた新大橋通りと考えられます。新大橋通りは片道二車線の大通りです。この大通りが通行不可能になることなど、想定していなかったはずです。結局、猿江恩賜公園へ逃げようとした人たちの相当部分が、菊川橋方面へ逃げていきました。
この公園には、実に13,242体もの遺体が仮埋葬されました。
1978(昭和51)年、公園北側に広がっていた貯木場が江東区潮見に移転し、1981(昭和56)年には北側部分も開園し、猿江恩賜公園に取り込まれました。
公園南側部分に銅板葺の古風な門の入り口があり、門を入ると猿江材木蔵跡との石碑があります。
その奥に、何の説明板のない、いわくありげな大きな石碑がでんと構えています。文字は薄れていて読めず、石碑の正面上部右側には猿が彫ってあるように見えますが、上部左側は破壊されています。東京大空襲犠牲者の慰霊碑かな?と思って公園の管理事務所に聞いていましたが、何物か全くわからないとのこと。
そこで、もう一度訪ねて目を凝らすと「猿江恩賜公園・・・享保19年・・・大正13年11月26日・・・」いった字がうっすらと読み取れます。この公園は、1733(享保18)年に幕府の材木蔵として造られ、1924(大正13)に東京市に払い下げられ、1932(昭和7)年に恩賜公園として開園しています。このような史実を踏まえると、この石碑はこの公園の開園記念に設置され、破壊された上部は東京大空襲の爪痕を残す貴重な資料となる可能性があります。
つづく