菊川橋から大横川に戻り、北上して大横川親水公園に入ります。この公園を法恩寺橋まで北上し、蔵前橋通りを三ツ目通りに向かいます。

 三ツ目通りとの交差点のそばのNTT石原ビルの敷地内に旧墨田電話局慰霊碑があります。

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 この電話局は、早乙女勝元の「死んでもブレストを」で有名になりました。

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 政府は、1945(昭和20)年2月、「通信非常態勢強化方策」を決定し、電話局の職員に対し、どんな非常災害時にあっても最後の一人になるまで通信施設を死守することを指示しました。大空襲の際、14歳の見習い少女3人を含む32人の交換手の乙女たちは、「死んでもブレスト(送話器)を外すな」の合言葉で、必死になって交換台を守りました。

 その日の朝のことです。機械修繕室で「コンクリートの壁際にひざまずき、壁に頭をつけ、ぴたりと互いに身をよせあい、炭みたいに黒焦げになって。頭は、ほとんどタドンとおなじなのでした。二つの目と口だけが、ぽっかりと開いて」という悲惨な状態の遺体が発見されました。もはや識別は不能で、辛うじてガマ口の金具の数で28体であることが確認できただけでした。

 自らも大空襲で愛する養女を失った作家吉川英治が、碑文に乙女らへの思いを揮毫しています。

「・・・当時の墨田分局 いま復興を一新して その竣工の慶を茲に見るの日 想いをまた春草の下に垂れて かっての可憐なる処女やら 他の諸霊にたいし 痛惜の 悼みを新たにそゝがずにはいられない。・・・」

旧墨田電話局慰霊碑を後に、蔵前橋通りを西に800メートル程行くと、江戸東京博物館の北側、横網町公園内に東京都慰霊堂があります。

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 1923(大正12)年9月1日、関東大震災が起こり、元陸軍被覆廠跡に逃げ込んだ老若男女約38,000人が、火災の竜巻に巻き上げられて窒息・焼死しました。ここで亡くなった方は、全都58,000人の被害者の実に65%も占めました。

 1930(昭和5)年9月、東京震災記念事業協会によって、元陸軍被覆廠跡地に被災者の慰霊のため震災記念堂(伊東忠太設計)が創建され、東京市に寄付されました。その後、この記念堂は、1945(昭和20)年3月10日の東京大空襲の犠牲者105,000体も合祀して、1951(昭和26)年東京都慰霊堂と名前を変えて現在に至っています。

 設計の方針として「その様式は純日本風とし、仏堂の観を表現すると同時に幾分神社の気分を潜在せしむること。」が掲げられており、外観はお寺のようでお寺でない風変わりな建築物です。

 堂内に立ち入ってみても荘厳な雰囲気が満ちてはいますが、寺院とは些か雰囲気が違います。

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 残念なのは、この建物がそもそも震災被災者の慰霊が目的でしたので、平和への祈りが込められていないことです。

 その代わりということなのでしょうか、横網町公園内に2001(平成13)年3月、「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」が設置されました。

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 碑文には「東京空襲の史実を風化させることなく、また、今日の平和と繁栄が尊い犠牲の上に築き上げられていることを次の世代に語り継ぎ、平和が長く続くことを祈念するために碑を建設しました。斜面を覆う花は生命を象徴しています。碑の内部には東京空襲で犠牲になった方々のお名前を記した『東京空襲犠牲者名簿』が納められています。 東京都 」とあります。

 個性的な形をした碑の上部には、四季折々美しい花が咲き誇っています。じっくりと向かい合って大空襲の犠牲者への祈りを捧げる気分にしてくれるモニュメントです。

 横網町公園内には「東京都復興記念館」もあり、館内には関東大震災と東京大空襲の資料が展示してあります。

                                        つづく