都営新宿線東大島駅から番所橋通りを南へ500メートル程行くと、小名木川(1枚目の写真)に架かる番所橋があります。

以前から「変わった名前だな」と思っていましたが、それ以上のことは考えないまま今に至っていました。
江戸末期の天保7年(1836年)に上梓された江戸名所図会を眺めていて、小名木川と旧中川の交差する「中川口」(2,3、4枚目の写真)を描いた絵図に目が行きました。そして、やっと番所橋は中川番所際にあるからこの名がついたと気が付きました。

寛永年間(1624~44年)に関東一円の大改修工事が完了し、江戸城大手門から小名木川、船堀川を経て江戸川、利根川水系へつながる重要な物資の輸送路が確保されることになりました。中川番所は、延宝7年(1679年)、房総方面へ往来する船や荷物を監視するため、小名木川と旧中川の交差する中川口に設けられた関所でした。

江戸は水郷の町といってよいくらい水路が張り巡らされ、水運は物資輸送の最重要手段となっていました。
中川番所設置当時は、主に年貢米などが運ばれていましたが、商品経済の発達とともに酒・醤油・穀物・干鰯・小間物・呉服といった様々な商品が運ばれるようになっており、中でも行徳の塩は、江戸市中のみならず関東一円に運ばれていました。
今では中々想像しにくいのですが、小名木川は江戸の生活物資流通の大動脈だったのです。

中川番所は、昔からその存在は知られていたものの、歴史に埋もれたままになっていました。
平成7年{1995年}に辺り一帯が東京都の防災拠点として再開発され、中川番所の跡地の発掘調査が行われました。その結果、鉢や茶碗、硯や瓦などが多数出土し、それらは平成14年(2002年)10月、中川番所跡地のやや北側に竣工した江東区中川船番所資料館(5枚目の写真)に展示されています。

小名木川は、かっては旧中川を経て、その東側の船堀川を通じて行徳方面へ続いていましたが、現在は中川口で途切れてしまっております。それは、もはや小名木川が昔日の水運の動脈としての役割を終えてしまったということもあるでしょうが、旧中川の東隣を流れる荒川と旧中川の水面の高低差が1・5メートルもあるということが大きいと思われます。

旧中川自体も、中川口のやや下流で途切れてしまっておりますので、もはや正確な意味では川と言えなくなっているのかもしれません。
その代わりと言ってよいのかどうか判りませんが、旧中川の終点にロックゲート(6枚目の写真)が設けられており、荒川と旧中川の高低差1.5メートルを乗り越えて船が行き来することができるようになっております。

さて現在の中川口です。私は2013年4月20日に中川口を訪ねましたが、辺り一帯は水辺公園として整備され、周遊バス、水上バスなども行き交うピクニックコースとなっています。中川船番所資料館に入館すれば、かっての賑わいぶりに思いを馳せることもできます。私が成少年時代を過ごした昭和30~40年代のうらぶれた灰色の工場地帯の雰囲気が、緑溢れ、心安らぐものに変わりつつあります。

1~2時間で行って来ることができる、美しい水辺です。水運に携わった江戸町民の生活に思いを馳せながら水辺を散歩すれば、下町が好きになることは間違いありません

一度足を運んでみてはいかがでしょうか。