これから葛西城が巻き込まれた戦国時代の戦乱の地を訪ねますが、それに先立って、葛西城を巡る戦乱の歴史を辿っておきます。
1454(享徳3)年、第5代鎌倉公方足利成氏による関東管領上杉憲忠殺害が発端となって、鎌倉公方足利成氏と上杉氏・足利幕府方との争いが始まり、その争いに有力武士団間の権力闘争・お家騒動などが複雑に絡み合って、30年も続く享徳の大乱が始まりました。
有名な応仁の乱(1467年~)を遡ること13年も前のことでした。
足利成氏は、大乱の攻防の中で次第に劣勢になり、鎌倉の地から味方の多い古河に本拠を移しました。
以後、鎌倉公方は、古河公方と呼ばれて百数十年間、東国における一方の旗頭として君臨し、関東武士は、旧利根川(現在の江戸川)の西岸に上杉・幕府方、東岸に古河公方方と、二つの勢力に分かれて対峙するようになりました。
葛西城は、このような時代背景の下で、上杉方の軍事拠点として築城されたのです。
最初の城主は、武蔵守護代大石氏の一族大石石見守です。入城時期は1460年前後のことと考えられています。この頃江戸城を築いたのが、有名な扇谷上杉家の執事であった太田道灌でした。
<太田道灌銅像出典:Wikipedia>
大乱の中で、葛西城の東隣の千葉氏が古河公方に味方するようになると、この城は上杉氏の対千葉氏の最前線基地となり、度々千葉氏の攻撃にさらされました。
1476(文明8)年の山内上杉氏内部の反乱(長尾景春の乱)を経て、1483(文明14)年頃には公方方と上杉・幕府方に和睦が成立し、さすがの享徳の大乱も収束し、葛西城にも平和が戻ったかに思われました。
ところが、葛西城は、その後も1486(文明18)年の扇谷上杉定正による太田道灌謀殺に伴う混乱、1487(長享元)年から1505(永正2)年にかけての山内上杉顕定と扇谷上杉定正との間の長享の乱、と打ち続く戦乱に翻弄され続けました。抗争の果て、山内上杉、扇谷上杉両氏がともに衰退し始めますが、この間隙を縫って、新たに戦国大名北条氏が台頭してきました。
その後、葛西城は、北条氏と上杉氏との戦乱に度々巻き込まれていきます。
北条氏対上杉氏の攻防は、北条氏二代目氏綱が、1524(大永4)年、扇谷上杉朝興方の江戸城を落とすのを皮切りに岩付城、蕨城、毛呂城、河越城と次々に攻略すると、山内上杉憲房の援軍を得た扇谷上杉朝興が岩付城、毛呂城の奪還をするといった具合で、一進一退を繰り返しました。
<小田原城所蔵北条氏綱像:出典Wikipedia>
この攻防の中で、次第に古河公方、山内上杉氏、安房の里見氏、上総真理谷武田氏、さらには甲斐武田氏まで加わった反北条包囲網が形成されるようになってきました。いつの間にか、古河公方対上杉の攻防の軸が、北条対古河公方・上杉連合になっていたのです。これは、紛れもなく北条氏の武蔵、下総での存在感が高まってきたからにほかなりません。
このような政治情勢の下、1525(大永5)年、北条氏二代目氏綱は、葛西城に迫りました。時の葛西城主は、大石石見守です。
大石石見守と姻族関係にあった三戸義宣が、その時、越後の上杉謙信の父長尾為景宛に出した援軍を求める書状が、今も残されています。
<三戸義宣書状>
「山内方の後方支援がなかったので、太田美濃入道のいる岩付城(岩槻市所在)が2月6日に落ちてしまいました。最近葛西の地へ(江戸方面から)敵方が向かっています。当方から支援部隊が出ているので今のところ持ちこたえています。万一、葛西の地が落ちてしまったら上杉領国の滅亡は程ないことでしょう。」
当時の利根川(現江戸川)の西側は、葛西城と岩付城を辛うじて上杉氏が抑えていたものの、その他の地域は殆ど北条氏に支配されていました。このような勢力関係の下で、岩付城が落とされ、葛西城にも危険が迫っていたのです。
大石石見守は、山内上杉氏の有力家臣で、武蔵守護代をつとめていました。
大石氏の嫡流が都下府中市に根を張っていたため、傍流の石見守はこれまで余り語られてきませんでしたが、嫡流が北条氏に吸収された後も、最後まで北条氏に抵抗を続けていたのでした。
しかし、1537(天文6)年、扇谷上杉氏の本拠河越城(現川越市所在)が落城すると、1538(天文7)年2月2日、葛西城はついに北条氏綱によって攻略されてしまいました。葛西城攻撃から13年後のことでした。
葛西城は、このとき以後は北条氏の城として、第一次、第二次国府台合戦等の戦乱に巻き込まれていきます。
第一次国府台合戦は、葛西城が北条氏の城になった年の1538(天文7)年10月、古河公方を担いだ北条氏綱と、国府台に陣取った足利公方の叔父の小弓公方足利義明と安房の雄、里見義堯の連合軍の間で勃発しました。
<第一次国府台合戦錦絵:出典Wikipedia>
この合戦は、古河公方足利晴氏と小弓公方足利義明の間の古河公方、即ち、鎌倉公方の座を巡る争いでしたが、その発端は、小弓公方の支持基盤であった里見氏、上総真理谷武田氏の内紛でした。
小弓公方が里見氏、上総真理谷武田氏の嫡流に担がれ、古河公方が里見氏、上総真理谷武田氏の庶流に担がれて争う構図の中で、北条氏綱は、古河公方の小弓公方退治の命に従った形で出陣することになりました。
北条氏と古河公方は、かって敵対していたはずですから、この両者の組み合わせには思わず耳を疑ってしまいます。古河公方は、提携していた里見氏・武田氏の嫡流が上杉氏をバックとする小弓公方についてしまったため、北条氏を頼り、武蔵・下総の支配権を手に入れたいと願っていた北条氏綱は、渡りに船とばかりに古河公方に救いの手を伸ばし、かくして両者の連合が成立したのでした。合従連衡の一典型です。
つづく