永井荷風と言えば、玉ノ井を舞台にした小説「濹東綺譚」があまりに有名です。玉ノ井は、1958年(昭和33年)4月1日に施行された売春防止法によって幕を引かれるまで、下町の私娼街として庶民が哀歓を共にした場所でした。幕引きから、はや60年以上の歳月が流れております。今更、どこまで当時の雰囲気を追体験できるか分かりませんが、「濹東綺譚」の舞台となった玉ノ井と荷風が足繫く訪れた向島百花園を訪ねて、荷風の見た風景に迫ってみたいと思います。
私娼街としての玉ノ井の歴史は、そう古いものではありません。1918~1919年(大正7~8年)頃、浅草観音堂裏の道路拡張工事で追い出された5~6軒の銘酒屋が大正道路(東武鉄道以東のこの道路をいろは通りと呼びます。)際で商売を始めたことに始まり、1923年(大正12年)の関東大震災で焼け出された淺草十二階の銘酒屋が大量に移住した頃から、最盛期には娼婦の数3,000人を数える本格的な私娼街になり、全盛期を迎えることになります。
「玉ノ井」は、新旧二か所に分かれています。戦前に発展した旧玉ノ井は、東武線東向島駅と交差している「玉ノ井いろは通り」と「改正道路」(現水戸街道)に挟まれた一角(但し、一部水戸街道の南側に入り込んでいます。)、戦後に発展した新玉ノ井は、「玉ノ井いろは通り」の北側部分になり、規模も戦前の5~6分の1程度しかなく、ラビラント(迷宮)もありませんでした。
前田豊の「玉の井という街があった」(ちくま文庫)に1936(昭和11)年の玉の井娼家街図が掲載されています。この地図を手掛かりに、荷風の足跡を探りながら玉ノ井を歩いてみます。
<玉の井娼家街図>
まずは戦前の「玉ノ井」を歩きます。
当時の玉ノ井への交通機関は、東武電車、京成電車、市営バス、京成バスがあり、最も利用率の高かったのは、淺草松屋を始発駅とする東武電車でした。
<旧玉ノ井駅>
東武線淺草~玉ノ井間は、1931年(昭和6年)3月12日に開通し、運賃は片道6銭だったといいます。夜間の乗客の80%は、玉ノ井で下車してしまいましたが、玉ノ井で下車した乗客には、料金が同じだからと隣の鐘ヶ淵駅までの切符を買い求める者が多かったようです。男たちのささやかな恥じらいの気持ちが伝わってきます。
「濹東綺譚」の主人公「私」は、旧京成電車の軌道跡の土手から、しばし玉の井の夕景を眺めた後、ごたごたした路地裏を歩いているとき夕立に遭います。「私」が常に持ち歩いている傘を開いて歩き始めると、突然「旦那、そこまで入れてってよ。」と言いざま、傘の下に真白な首を突っ込んだ女がいました。お雪です。ここから、「私」と娼婦「お雪」の娼家での淡々とした交流が始まります。
そんな交流の中で、「私」は、次第に「お雪」の純朴で、ともに人情を語ることができる人柄に惹かれていきます。
しかし、「お雪」が「私」との結婚を夢見るようになると、「お雪」の結婚相手は結婚の失敗者である「私」より、「前途になお多くの歳月を持っている人でなければならない。今の中ならば、それほど深い悲しみと失望をお雪の胸に与えずとも済むであろう。」と考えるようになります。
そして、「お雪」が買いたいと言っていた和服の代金が30円と聞くと、「そのくらいなら、ここに持っているよ。一人で行って誂えておいでな。」とポンと30円を渡します。「私」と「お雪」の交流はここで終わります。
小説の中で「お雪」の居たお店は、「どぶ際」の寺島町7丁目61番地安藤まさ方と記されています。
荷風は、小説中でしばしば実名を使っていましたので、これまで「荷風がお雪と会っていた場所は、安藤まさ方だった。」「いや、お雪は実在の人物ではなく、安藤方は架空の場所だ。」と喧々諤々の議論がされてきました。
玉ノ井の最盛期に玉ノ井で生活していた作家の前田豊は、「お雪の娼家の主とおぼしき老女に会ってことの真偽を確認しようとしたが」と前置きして、「老女の剣幕に押され確認できなかった。荷風の日記で娼家の主とごたごたしたことがあると書かれていたことが原因ではなかったか?」と述べて、安藤まさ方がお雪の居た娼家であると、お雪実在説をとっています。
前田豊は、「娼家へ通じる路地の出入り口は周辺の道路に無数にあり、上部に「ぬけられます」の表示があるから、自然その方に足を向ける仕掛けになっている。だが、いったんこの路地へ足を踏み入れたら最後、ぬけられるどころの沙汰ではなく、狐につままれたように同じ場所をぐるぐる回される結果になる。」と述べています。荷風は、この一角をラビラントと呼びました。
玉の井娼家街図の(二部)との記載の下に「61」とある場所が、安藤まさ方の候補地です。お雪の面影を追って、娼家街図片手にラビラントに足を踏み入れます。
東向島駅から東武電車の線路沿いの東向島粋いき通りを北上し、いろは通りとぶつかった角を東側にいろは通りを一寸歩くと、V字形になった道路にぶつかり、V字の天辺部分にカレー屋さんがあります。
娼家街図とにらめっこすると、V字形になった道路の向かって左側の道路が「お雪の家」へ向かう道のようですので、この道を進みます。
<カレー屋> <カレー屋からの道>
地図を見ると、下水跡を通り過ぎた辺りの道から右の路地に入ったところが「お雪の家」のはずです。と言っても、下水跡は形跡すらなく、「お雪の家」も東京大空襲で焼失してしまっています。その家の跡地を見付けることは、容易ではありません。
ままよと、右にひょいと小さな路地へ入ります。
<お雪の家路地?> <三叉路>
路地を10メートル程進むと、変則三又路が現れます。この一帯は旧玉ノ井二部に該当し、その中心部でもあったため、その名残の入り組んだ路地と思われます。
三又辺りでうろうろしていると、同年輩の住民の方と眼があいました。
「お雪の家」について何か知らないか聞いてみると、隣のTさんなら昔のことも知っている筈だから、聞いてみたらどうですか?」と教えてくれました。
Tさんの玄関の戸を何度か叩いたのですが、残念ながら応答がなく、「お雪の家」の確認はできませんでした。
しばし佇んで眼をつぶり、ラビラントの雰囲気を味わおうと試みましたが、それは簡単なことではありません。そのためには、百年の時空を超える道具立てが必要です。
まずは、「濹東綺譚」の木村壮八描く情味たっぷりの挿絵を眺めてみます。
吉原遊郭の豪華な雰囲気とは明らかに違う、庶民的な雰囲気が漂っています。
もっとも、私など両方とも知る由もありませんが。