戒厳令の宣言を受けて、内務省警保局長は、9月3日午前8時15分、海軍無線電信船橋送信所から各地方長官宛、「東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内において爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり。既に東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に、各地に於いて十分周密なる視察を加え、鮮人の行動に対して厳密なる取り締まりを加えられたし。」との電文を流しました。

 流言飛語が飛び交う中での戒厳令の宣言、内務省警保局長からの電文の発信は、朝鮮人虐殺に向けて火に油を注ぐ結果になり、主に自警団と軍隊を実行部隊とする朝鮮人虐殺が続くことになってしまいました

 次に掲げた写真は、当時の自警団の様子を写したものです。軍服姿の人物は在郷軍人と思われます。

clip_image001

 自警団による朝鮮人虐殺は、子どもたちの心にも暗い影を落とし、子どもたちの間で「自警団遊び」が始まりました。

clip_image003

 この絵は、美人画で有名な竹久夢二の「東京震災画信」の内の1枚で、「自警団遊び」と題されています。「萬ちゃん、君の顔はどうも日本人じゃないよ。」豆腐屋の萬ちゃんを掴まえて、「萬ちゃんを敵にしようよ。」と言って自警団遊びが始まりました。「萬公!敵にならないと打ち殺すぞ。」と嚇かして敵にして追っかけ回しているうちに本当に萬ちゃんを泣くまで殴り続けてしまった。」・・・と自警団遊びの情景を切り取り、「子供達よ、棒切れを持って自警団ごっこをするのはもうやめましょう。」と戒めています。

このような混乱が続く中で、次第に朝鮮人暴行の説が流言に過ぎないことを知り始めていた警視庁は、9月3日、「不逞鮮人の妄動の噂盛なるも、右は多くは事実相違し訛伝に過ぎず、鮮人の大部分は順良なるものに付濫りに之を迫害し、暴行を加ふる等無之様注意され度し」との急告のビラを散布し、「朝鮮人の妄動に関する風説は虚伝に亙る事極めて多く、非常の災害に依り人心昂奮の際、如斯虚説の伝播は徒に社会不安を増大するものなるを以って、朝鮮人に関する記事は特に慎重に御考慮の上、一切掲載せざる様御配慮相煩度,尚今後如上の記事あるに於いては発売頒布を禁止せらるる趣に候條御注意相成度」と新聞への警告書を発しました。

 この頃になると、官憲内部でも朝鮮人暴動の実在が怪しまれ、このままでは朝鮮人暴動を事実として認定して朝鮮人虐殺を引き起こした国家の責任が問われかねないとの認識が広がってきました。9月5日、臨時震災事務局警備部に各方面の官憲が集められ、鮮人問題に関して外部に対する官憲の採るべき態度について合議が行われました。その結果、臨時震災事務局警備部は、次の決定を行いました。

「朝鮮人の暴行又は暴行せむとしたる事実を極力捜査し、肯定に努ること。

 尚、左記事項に努ること。

イ 風説を徹底的に取り調べ、これを事実として出来うるかぎり肯定することに努ること。

ロ 風説宣伝の根拠を十分に取り調らぶること。」

 朝鮮人暴動の実在が怪しまれていたのですから、政府には何よりその事実の有無を明らかにすることが先決問題であった筈です。

 しかし、政府は、国家責任を免れるために、実在しない可能性の高かった朝鮮人暴動の事実を実在したように扱おうとしてしまったのです。                           

 関東大震災当時、京成線八広駅そばの荒川の堤防に旧四ツ木橋が架かっていました。

 旧四ツ木橋はすでになく、その跡近くには木根川橋が架かっています。旧四ツ木橋付近は、大勢の朝鮮人虐殺の現場になりましたので、この現場を訪ねることにします。

 京成線八広駅から徒歩5分ほどで、現場付近の荒川土手に着きます。木根川橋のやや北側の大木が繁っている河原付近が虐殺の現場と言われています。

clip_image005

   (虐殺現場)

 この河原でどのような出来事が発生したのか?その時の様子を目撃した方々の証言がたくさん残されています。それら証言をもとに、旧四ツ木橋付近で何が起きたのか振り返ってみます。

 大震災の当日、火災に追われた人々は、大正街道、曳舟川沿い、中居堀沿いなどの道を通って9月1日夕方には荒川放水路の土手に集まって来ており、土手周辺は避難民で溢れていました。

 このような非日常的な事態の下で、避難民の間に早くも「津波が来る。」「朝鮮人が襲ってくる。」「朝鮮人が井戸に毒を入れた。」といった流言が流れ始め、朝鮮人の虐殺が始まりました。旧四ツ木橋で消防団につかまり、辛うじて助かった曺仁承(チョインスン)さんは、虐殺現場の様子について、次のように語っています。

「家では危ないからと荒川の土手に行くと、もう人はいっぱいいた。火が燃えてくるから四ツ木橋を渡って一日の晩は同胞一四名で固まっておった。女の人も二人いた。そこへ消防団が四人来て、縄で俺たちをじゅずつなぎに結わえて言うのよ。『俺たちは行くけど縄を切ったら殺す』って。じっとしていたら夜八時ごろ、向かいの荒川駅(現八広駅)の方の土手が騒がしい。まさかそれが朝鮮人を殺しているのだとは思いもしなかった。翌日の五時ごろ、また消防団の四人が来て、寺島警察に行くために四ツ木橋を渡った。そこへ三人連れてこられて、その三人が普通の人に袋だたきにされて殺されているのを、私らは横目にして橋を渡ったのよ。そのとき、俺の足にもトビが打ちこまれたのよ。橋は死体でいっぱいだった。土手にも、薪の山があるようにあちこち死体が積んであった。」(風よ鳳仙花の歌をはこべ48~50ぺージ)

 当時15歳だったAさんも、「たしか三日の昼だったね。荒川の四ツ木橋の下手に、朝鮮人を何人もしばってつれて来て、自警団の人たちが殺したのは、何とも残忍な殺し方だったね。日本刀で切ったり、竹槍で突いたり、鉄の棒で突きさしたりして殺したんです。女の人、中にはお腹の大きい人もいましたが、突き刺して殺しました。私が見たのは三〇人ぐらい殺していたね。荒川駅の南の土手だったね。殺したあとは松の木の薪をもってきて組み、死体を積んで石油をかけて燃やしていました。今は川の底に埋められたけど、水道鉄管橋(当時は橋脚を組んで川の上を通していた)のあたりですね。大きな穴を掘って埋めましたよ。土手のすぐ下のあたりです。」と、虐殺のありさまをまざまざと語っています。(風よ鳳仙花の歌をはこべ50~51ぺージ)

                           つづく