喜劇役者として一世を風靡した「伴淳」は、震災当時15歳。蔵前で住み込みで働いていて震災に遭遇し、9月1の夕方ようやく旧四つ木橋の袂のずいき畑まで避難し、朝鮮人虐殺の現場を目撃しました。その自伝「伴淳のアジャパー人生 芸道・色道50年」で、「畑の中は避難民でいっぱいだった。そんなところへ・・・『朝鮮の人が暴動を起こした』といううわさが広がりはじめたんだ。大人は朝鮮の人を押さえるんだって、ほとんどの人がずいき畑から出動しちまった。」「翌朝見せられたものは・・・阿鼻叫喚の地獄絵図だった。」「朝鮮の人と思われる死体が地面にずらっと転がっている。その死体の頭へ、コノヤロー、コノヤローと石をぶつけて、めちゃめちゃにこわしている。生きた朝鮮の人を捕まえると、背中から白刃を切りつける。男はどさりと倒れる。最初白身のように見えた切り口から、しばらくしてピャーッと血が吹くんだ。俺はそれを目撃して震え上がっちゃった。」「まあ、ひでぇもんだった。日本人は、こうした昔の残虐行為を忘れちゃったのかね。朝鮮の人たちの恨みというのか、排日感情というのかな、その頃のことに根ざしているんじゃないかと、俺は思うんだ。」と語っています。

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   旧四ツ木橋付近の事件現場には、9月の2~3日になると、戒厳令に基づいて軍隊が出動してきました。何とこの軍隊は、機関銃を河川敷に据えて、朝鮮人の殺害を始めてしまったのです。

   現場を見ていたŌさんは、その時の様子を「二二、三人の朝鮮人を機関銃で殺したのは旧四ツ木橋の下流の土手下だ。西岸から連れてきた朝鮮人を交番のところから土手下におろすと同時に後ろから撃った。一挺か二挺の機関銃であっという間に殺した。それからひどくなった。四ツ木橋で殺されたのはみんな見ていた。中には女も二、三人いた。女は・・・ひどい。話にならない。真っ裸にしてね。いたずらをしていた。朝鮮人を連れてきたのはむこう岸(葛飾側)の人だった。寺島に連れていかれる前に四ツ木橋の土手下で殺された。兵隊は震災から二、三日してきたが、歩きで騎兵ではなかった。」と語り、Kさんは、軍隊による朝鮮人殺害が始まったときの民衆の反応について、「みんな万歳、万歳をやりましたよ。殺されたところでは草が血で真っ黒になっていました。」と、述懐しています。(以上、風よ鳳仙花の歌をはこべ58~9ぺージ)

   9月3日に宣言された関東戒厳令司令官の「不逞の挙に対して、罹災者の保護をする」との命令が、軍隊による朝鮮人虐殺の呼び水となってしまったのです。

   市川の国府台第一師団野戦重砲兵第三旅団所属の第一連隊第三中隊長遠藤三郎大尉は、その日記で「国府台の最高責任者金子直第三旅団長をはじめとする指揮官は朝鮮人暴動を信じ、討伐隊を続々と東京東部に出動させている。」と述べた上で、自分が休暇で山形に帰っていた時期に部下の岩波少尉が、「部下二十数名を連れて連隊から派遣され、中隊長の許可も受けずに大分殺しているんです。戦に行って敵を殺すのと同じように、朝鮮人、支那人を殺せば手柄になると思って、二〇〇名殺したか、何名か知りませんがね。」と述懐し、事実上、軍隊による朝鮮人虐殺を認めています。(風よ鳳仙花の歌をはこべ144~5ぺージ)

   旧四ツ木橋付近で虐殺された朝鮮人の正確な人数は分かっていませんが、「負の歴史を平和の礎」にと活動をしている一般社団法人ほうせんかのホームページでは、百~百数十名と推定しています。

   旧四ツ木橋付近で引き起こされた朝鮮人虐殺の状況をおさめた写真などは、当然のことながら残されていません。

  その代わり、虐殺を描いた絵画がいくつか残されています。そのうちの一枚が、挿絵画家の河目悌二が描いた「虐殺絵」(国立歴史民族博物館蔵)です。

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   場所は隅田川の川べりと推測されており、事件現場に居合わせた人物による克明な報告と言える絵画です。

   絵画右側の朝鮮人を連行しているのが警察官、その左側で銃を突き付けて脅しているのが軍隊と在郷軍人、さらにその左側で朝鮮人を殺害している男たちが自警団とみられます。朝鮮人虐殺が、警察官、軍隊、在郷軍人と自警団の連携によって行われている様が見て取れます。

   関東大震災から59年目に当たる1982年9月2日、3日、7日、震災時に軍隊・警察・民衆によって殺され埋められたという朝鮮人の遺骨を掘り出すために、荒川河川敷にスコップが入れられました。その場所は、先ほど掲載した大木の繁る河原から現在の木下川橋より数十メートル南側でした。

   足立区の小学校教師絹田幸恵の虐殺された朝鮮人を供養したいとの思いが、周囲を動かした結果でした。     

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      (発掘作業の様子)             (発掘現場の現在の状況)

   発掘作業の様子の写真は 西崎雅夫編:関東大震災朝鮮人虐殺の記録に掲載されているものです。

  大規模な発掘調査をしたにもかかわらず、残念ながら、遺骨を発見できませんでした。その後、震災当時の新聞資料を調査したところ、震災から2か月半ほど過ぎた11月中旬、警察が2度にわたって一帯を掘り返して遺体を持ち去っていたことが判明しました。

  遺骨の発見はできませんでしたが、この年の12月「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し慰霊する会」が発足し、その後毎年旧四つ木橋(現木根川橋)土手下の荒川河川敷で、「朝鮮人殉難者追悼式」が開催されるようになっています。

   前記慰霊する会は、名称を追悼する会に改称し、2009年8月、虐殺現場近くの八広に「ほうせんかの家」を設け、その隣に「関東大震災時 韓国朝鮮人殉難者追悼之碑」を建てました。

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  ほうせんかの家)  (韓国朝鮮人殉難者追悼之碑)

  碑文には「1923年 関東大震災の時、日本の軍隊・警察・流言蜚語を信じた民衆によって、多くの韓国・朝鮮人が殺害された・・・この歴史を心に刻み、犠牲者を追悼し、人権の回復と両民族の和解を願ってこの碑を建立する。」とあります。

                            つづく