これまで亀戸警察署は、朝鮮人虐殺の現場になっていたと述べてきましたが、同警察署は何の罪もない労働組合活動家労働者10名を虐殺した亀戸事件の現場にもなっていたのです。この虐殺を引き起こしたのも、軍隊と警察でした。

 亀戸事件とは、9月3日、南葛労働会の川合義虎(21歳)他7名の労働者と純労働組合の平沢計七(34歳)ら2名の労働者の合計10名が検束され、同月4日深夜から5日早朝にかけて亀戸警察署内演武場で兵士によって殺害された事件を言います。 

    中でも、平沢計七は、生きたまま首を切られ、その生首が東京市の職員によって偶然写真撮影されるという衝撃的な死を遂げていました。

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(川合義虎)          (平沢計七)

   警察発表や政府の答弁書によると、検束理由は、「革命歌を高唱しあるいは流言蜚語を放つ等当時の状況に徴し頻る不穏の言動在りしを以て公安保持上」となっていますが、これらの事実は警察でも確認されていません。

   この答弁書によると、殺害の理由は、彼らが検束後も革命歌を高唱し、多数の収容者を煽動したため房外へ隔離したが、鎮静せず抵抗したためとされています。

   仮に隔離の理由が答弁書のとおりであったとします。房外へ隔離された労働者らが武器を所持していた筈もありません。また仮に、東京日日新聞の報道するように、彼らが傍らの薪をもって抵抗したとしても、武装した兵士が彼らを鎮圧するためには殺害する以外に方法がなかったとは到底考えられません。

   ちなみに、彼らが殺害される数時間前に、亀戸警察署内では自警団員4人が殺されており、彼らが殺された理由は薪を以て抵抗したためと発表されています。薪がそんなに危険なものであれば、当然自警団員を殺害後は他の収容者の手の届かない所に移されていた筈で、このような理由も極めて疑わしいと言わざるを得ないのです。

   亀戸事件に関連して、9月11日に亀戸署に拘束された者の中に後述の南喜一の実弟で南巌という人物がいました。

   南巌は、事件当時の亀戸警察署について、「留置場は留置場が二つ、保護室が一つというものでしたが、留置場には朝鮮人以外にも日本人も詰めるだけ詰めて、鍵をかけて、文字どおり豚箱、糞尿垂れ流しで、9月9日にはじめて留置場を清掃したということを留置された者から直接聞かされております。ですから・・・革命歌を歌うような悠長な状況ではなかった。」(この歴史永遠に忘れず 関東大震災七十周年記念実行委員会編75~6ページ)と証言しています。

   検束日である9月3日午後1時頃には、既にみてきたとおり、騎兵一個中隊が治安維持のために亀戸警察に到着し、流言飛語を真実と思い込んで朝鮮人虐殺を始めていたのです。

  9月3日の関東戒厳令司令官命令が、その実施目的を「不逞の挙に対して、罹災者の保護をすること」を挙げていたことは既に述べました。この戒厳令を真に受けた陸軍将兵らが、彼らが不逞の挙を行ったと思った朝鮮人や社会主義者・無政府主義者らは罹災者を保護するためには殺害しても構わない人たちと考えていたことは間違いありません。

   このような陸軍兵士にとって、もはや朝鮮人や社会主義者・無政府主義者・組合活動家というだけで殺害する理由になっていたと思われます。

   10名殺害の実行行為者は、習志野騎兵第十三連隊の兵士とされており、古森亀戸警察署長は、自分たちは留置場から労働者らを引きずり出すのを手伝っただけと主張しました。

   しかし、急遽派遣されてきた軍隊に、10名の労働者との面識などあろうはずがありません。10名の労働者を特定して留置場から引き出すためには警察の指示が不可欠です。引きずり出した労働者の処分(殺害)についても、警察の了解も不可欠です。

   大震災当時、南葛労働会は、悪法反対運動、メーデーの示威行動などで警察と対立していただけでなく、広瀬製作所の工場閉鎖を巡って争議中であり、この争議に亀戸警署察特高係が介入していました。

   純中立労働組合も、大震災の前年の1922年の大島製鋼争議では、亀戸署長率いる警官隊と激しい乱闘を演じ、120余名が検束されていました。

  このような10名労働者と亀戸警察署との紛争の背景をふまえるならば、警察が10名の労働者を危険分子とみなして、軍隊に虐殺させた疑いは濃厚です。

   平沢計七は、労働組合の活動家であっただけでなく、プロレタリア演劇の祖にして、生活協同組合・労働金庫設立の提唱者と言われている人物でした。

   彼は「ロシアの民衆は彼らの真実の姿を舞台で見るんだ。日本の職工労働者は舞台の上で自分たちの生活とは無縁の忠臣蔵を見て泣いて、笑ったりしている。労働問題の自覚を芝居によっては少しも教えられない。」として労働者のための演劇を目指し、わずか34年の生涯で50編以上の小説、30編近い戯曲を書きました。作家菊池寛は、「あんな落ち着いて思慮のある人物が、ああいう天災の時、乱暴を働いたなどどうしても思えない。」として、警察・軍隊による残虐非道な行為に怒りをあらわにしました。

   亀戸事件の被害者は、旧亀戸警察署から歩いて10分の浄土宗赤門浄心寺に葬られ、同寺には「亀戸事件犠牲者の碑」が建立されています。

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   (浄心寺)      (亀戸事件犠牲者の碑) 

 亀戸事件で殺害された労働者の中に、南喜一という人物の関係者が含まれていました。

 南喜一は、亀戸の近くの吾嬬町大畑で従業員70名のグリセリン工場を経営しており、工場のあった吾嬬町と自宅のあった寺島町両町会の町会長を務める地元の有力者でした。殺された10名の労働者うち吉村光治は、南の実弟であり、佐藤欣治は南の会社の従業員でした。

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   (南喜一)

 南は、亀戸警察署の古森署長をよく知っていたので、9月5日、弟たちが殺されたらしいとのうわさの真偽を確かめるため同警察署に出かけ、「署長に会いたい。」と申し出ました。

 すぐに署長室に案内されたので、「やっぱり弟が殺されたというのは間違いだ。」と思い、「うちの職工の佐藤欣治と姓は違うが俺の弟の吉村光治が一昨夜ここに引っ張られたんだが、ちょっと合わせて下さい。」と頼むと、「吉村光治があんたの弟!!」と署長の顔に狼狽の影が走った。「弟は無事だろうね。」と畳みかけると、署長は顔を伏せて答えなかった。「生きているのか殺されたのか、はっきりと答えてくれ。」と大声で言い、いっぱい机を叩いた。署長は「現在は戒厳令下で、警察は軍隊の指揮下に入っている。従って私には、あんたの質問について答える権限がない。」と目をそらした。この言葉から弟たちの死を確信した南は、「殺したんだな。よし殺した奴に会う。弟を殺した奴を出せ。」と怒鳴ると、南の怒号を耳にした巡査部長が飛び込んできた。巡査部長の手にしている日本刀の柄には血潮ですべらぬ用意の白木綿が巻いてあった。「俺が弟さんのいる留置場に案内する。」と言って南の肩を軽くたたいた巡査部長の後について暗いトンネルのような通路に踏み込むと、足を滑らした。倒れるのをかばった手のひらに、べっとりと血が付いた。素早く立ち上がって巡査部長を振り返ると、巡査部長の右手が日本刀の柄にかかっていた。南は柔術の手で巡査部長の身体を宙に一回転させると駆けだした。窓を飛び越えて中庭に出ると、こもをかぶせた一目で死体とわかるものが並べてある。あっと足をとめたとき、背後で叫び声がして、続いてピストルが鳴った。中庭を駆け抜けて裏口の扉に力いっぱい体当たりした時、またピストルが鳴った。右足のふくらはぎに熱いものが当たった。亀戸署から五町ほど離れた香取神社まで逃れてきて南は歩けなくなってしまったが、同神社に駐屯していた戒厳司令部大隊長の大佐に助けてもらった。(以上、南喜一著「ガマの闘争」より要約)

 自分の弟や従業員が殺されただけでなく、自分自身も殺されかかった南にとって、亀戸事件についての政府の「戒厳令下のやむを得ない措置であるから、当事者の責任は一切追及しない。」との発表は、納得しようがありませんでした。

 1924(大正13)年2月17日に青山斎場で営まれた吉村ら10名の労働組合葬に遺族代表として立った南は、「私は思想のことは今まで知りませんでした。しかし、今度の事件に対する政府のやり方、考え方から、いかに、資本主義国家が暴虐であるかということ、労働者をどう扱っているかということを知ったのであります。」と訴えました。

 この辺りの行動までは、常人でも理解できなくはありません。しかし、南はここから常人の理解を遥かに超えた行動に走ります。自ら労働運動に飛び込む決心をし、労働運動にまい進するため、10年間営々として築いた財産のすべてを投げうってしまいました。

 南の経営していた工場と62軒の家作、それに保有していた特許権もすべて処分しました。処分代金から2万円を70人の工員への解散手当として渡しました。

 一人平均285円になります。関東大震災で一時解散した精工舎の解散手当が一人平均20何円と言われていましたので、この金額が如何に大きな金額であったかがわかります。次いで、妻に2万円を渡して二人の子とともに栃木の実家に帰しました。

 その上で、残った10万円を持って南葛労働会の指導者渡辺政之輔の下に行き、「無条件でお任せしますから、運動資金に使って下さい。」と差し出しました。1924(大正13)年、南喜一31歳の時のことです。

 ちなみに当時の10万円は、現在のお金に換算すると3億円近いお金になります。

 南は、「思想のことを今更勉強するより、おれはおれの力を精いっぱいふるって弱い者の味方になるんだ。おれの力というのは、腕力と臨機応変の判断力、これなんだ。」と思い定め、馬車馬のように走り回り、十指に余る労働争議を指導していきました。その中には「三大争議」として有名な「小石川の共同印刷スト」があります。この争議を題材として書かれた徳永直の出世作「太陽のない街」の岩波文庫版解説に、「争議には会社側は、財閥首脳部が顔を出し、終局には内務大臣、警視総監も出てきていた。他方、組合側は共産党指導部が隠れた最高指導部で、党員でない争議部長南喜一などが指導し、まったくどっちも最高の陣立てであった。」と書かれる程、大車輪の活躍をしていたのです。

 南は、その後「浜松日本楽器」ストで騒擾罪で起訴されたり、非合法共産党に参加して1928(昭和3)年3月15日の共産党大検挙で、悪名高い「治安維持法違反」で検挙されたりと、日本が軍国主義への道をまっしぐらに進んでいく中で、波乱万丈の人生を送っていきます。

 獄中で当時の共産党指導部の腐敗ぶりに落胆して共産党を脱党し、1930(昭和5)年3月19日に市ヶ谷刑務所から保釈で出所すると、「今後はただ一人で、貧しい民衆のため労働者のため運動を続けようと決意」し、向島区寺島五丁目55番地の玉ノ井駅前にしもた屋を借りて、江東地区一帯の中小企業従業員組合をつくる活動を開始しました。

 そのような活動をしていく中で、「玉の井の私娼窟」の私娼が南喜一を頼って救済を求めてくると、正義感に駆られて私娼の救済活動にのめり込んで、八面六臂の大活躍を始めてしまいました。

 南喜一の熱血ぶりには心踊らされますが、その活動を追い続けると本筋から外れてしまいます。興味のある方は、同人の「ガマの闘争」をお読みください。

 南は、戦後、古紙を再生する研究を進める中で国策パルプを立ち上げたり、クロレラ研究からヤクルトを立ち上げたりというように、財界人として名を馳せていきましたが、労働運動を志した初心は忘れませんでした。戦後第一番目に結成された労働組合の結成に尽力したことが自慢であったように、世間常識を飛び越えた活躍をしたことだけは、お伝えしておきます。余談ながら、南は性豪にしてY談の名手としても有名で、「ガマの性談」など洒脱な著作も残しています。

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                          つづく