亀戸事件から10日ほど過ぎた9月16日、無政府主義者の大杉栄とその内妻で作家の伊藤野枝そして大杉栄の甥で6歳の橘宗一が、自宅付近に張り込み中の憲兵隊に連行され、淀橋警察署から麹町憲兵司令部に連れていかれた後に消息を絶ちました。事件性を直感した読売新聞の安成記者の助言によって、橘宗一の母あやめは、アメリカ大使館に駆け込むとともに警察に捜索願を出しました。橘宗一は、あやめが日系貿易書の夫との間にアメリカで生んだ子で、アメリカ国籍を有していたからです。

 9月18日、報知新聞に「大杉夫妻が子供とともに憲兵隊に連れていかれた。」との記事がでて、政府もだんまりを決め込むことができなくなりました。閣議で、既に国際問題化し、複数の新聞社が情報をつかんでいる以上もみ消しは不可能と判断され、甘粕正彦憲兵大尉が衛戍監獄に収監されることになりました。

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   (写真中央が甘粕正彦)

 そして、9月20日、読売新聞と時事新報が号外で「甘粕憲兵大尉が大杉栄を殺害」の一報を発し、大杉だけでなく伊藤野枝と橘宗一も一緒に殺されて井戸に投げ込まれたことも明らかになりました。

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    (大杉栄)        (伊藤野枝)

 9月24日、新聞各紙は軍法会議検察官の「犯行動機は、甘粕大尉が平素より社会主義者の行動を国家に有害なりと思惟しありたる折柄、今回の大震災に際し、無政府主義者の巨頭たる大杉栄が震災後秩序未だ整わずに乗じ、いかなる不逞行為に出ずるやも測り難きを憂い、自ら国家の害毒を徐せんとしたるものの如し」との談話を発表しました。

 まるで甘粕の犯行を肯定しているような発表でした。その後、事件について報道しようとする二、三の新聞は発禁処分を受け、事件の真相や具体性は一切国民に明らかにされませんでした。

 甘粕の予審の聴取書が残されているので、それに基づいて同人の犯行に至る経緯を振り返ると次のようになります。

「甘粕は、森曹長以下3名の兵士を連れて淀橋署に向かい、署員の案内で大杉の家に行くと大杉は不在であった。隣の酒屋の『鶴見の方に行くと言って出かけましたよ。もうおっつけ帰るでしょう。』との言葉に従って張り込みを続けると、大杉と野枝の白い洋服姿が見え、大杉が6~7歳の男の子の手を引いていた。森曹長が『大杉さんですね。ちょっと憲兵隊まで来てください。』と申し入れ、淀橋署に連れていき、そこから麹町区大手町の憲兵分隊に運んだ。それは午後6時30分頃であった。

 午後8時頃、憲兵隊司令部の応接所に森曹長が大杉一人を連れて入り、取り調べ中、甘粕が入っていって腰かけている大杉の後ろからいきなり右手の前腕を大杉の喉に当て、左手首を右掌に握り、力まかせに後ろへ引いた。大杉が椅子から倒れたので右膝頭を大杉の背中に当て、柔道の絞め手て絞殺した。・・・森は黙ってなりゆきを見ていた。同様に他の二名も殺した後、憲兵隊の火薬庫の傍らにある普段使っていない井戸の中へ、菰に包み麻縄で縛って、投げ込んでおいた。」

 ところで、この事件、検察官の談話、予審の聴取書などを振り返るだけでも幾多の問題点が浮かび上がります。

 まず甘粕は何故このような犯行を犯したのか?の点です。

「いかなる不逞行為に出ずるやも測り難きを憂い」て犯したとされていますが、公判の席で「震災後社会主義の言動につき不穏なる何かの確証を認めたか」と問われて、「震災後放火犯人を捕らえて調べた時、その背後に社会主義者があって、朝鮮人と連絡を取り、事をあげようとしていることをききました。殊に二日の日は、野枝が爆弾を懐に、潜かに活動をしているということもきいたのであります。」と、不逞行為に出る恐れを抱いた根拠は、単なるうわさに過ぎなかったと言うのです。

 次いで、「放火犯人や朝鮮人を使嗾した主義者は誰であったか」と畳みかけられると、「ハッキリわかりませんが、むろん大杉もその一人だと思いました。殊に大杉は検束されていませんから、かかる運動をするのは大杉より他にないだろうと思ったのです。」と、単なるうわさに勝手な思い込みまで付け加えていたというのです。

 さらに「大杉の行動に対する何らかの確証を握ったか」との問いに対しても、「一日以来、野枝とともに行動したということをきいた計りです。」と答え、大震災発生後大杉が疑わしい行動をとる余地が極めて少ないことを認めているのです。

 当時の大杉の日常生活を見てみましょう。瀬戸内寂聴の大杉栄・伊藤野枝夫妻を主人公にした伝記小説「諧調は偽りなり」には、「大杉一家が1922(大正11)年3月逗子の借家に引っ越したがその敷地が広いので尾行は門の中に小屋がけして、常に四人もひかえていた。客が来ると、まず彼等が二人もとびだしてきて住所氏名を訊きだす。」「大杉一家は1922(大正11)年10月頃逗子を引き揚げ「労働運動社」が看板を掲げていた駒込片町十五番地の家へ移っていった。・・・警察は前の空き地に尾行小屋を建て、四六時中看視していた。」とあり、先ほどの予審の聴取書にも「事件当日の午後2時30分頃、淀橋署に行くと「今日大杉は外出して家に居りませんという。もちろん、尾行は外出先まで尾けているから、おっつけ様子がわかる筈であった。」とあります。

 大杉には日常的に警察の尾行張り込みが行われており、当時疑わしい行動などとりようがなかったのです。ですから、甘粕も大杉の犯罪行為の確証を握っていたのか聞かれて、「一日以来、野枝とともに行動したということをきいた計りです。」としか答えられなかったのです。

 要するに、甘粕は、大杉の思想が気に入らなかったから殺したと言わざるをえないのです。

 次に犯行態様を見てみます。

 甘粕は、森曹長をそばに控えさせておきながら、自分一人で殺したとの供述をしていましたが、この供述は田中軍医大尉の作成した「大杉・ノエ・宗一屍体鑑定書」の内容と完全に食い違っていました。

 この鑑定書は、大杉の胸部は「右側第四肋骨は乳腺上において、左側第四、第五肋骨はその軟骨部との境界において、いずれも完全骨折し」、胸骨も「体部上三分の一との境界で横に完全骨折し」ていたと記しています。

 大杉の身長は、屍体鑑定書によれば、五尺四寸一分(約163.5センチ)であったのに対し、甘粕は150センチ台前半位の、当時としても小柄な人物だったようです。しかも大杉は柔道を心得ていたと言われていますので、甘粕が一人で扼殺するのは容易でなかったはずです。そばにいた森曹長と二人掛かりで殴る蹴るの暴行を加えて最後に首を絞めて殺害した可能性が高いと思われます。

 それなのに、鑑定書を目にした筈の判決文は、「甘粕が司令官室で森と対話中の大杉をいきなり扼殺し、その時森は室外で見張りをしていた」と認定しています。あくまで「俺が一人でやった。」と主張する甘粕の男気を、そのまま受け入れた馴れ合いの判決と言わざるを得ません。

 最後の、そして甘粕事件の最大の謎が、甘粕の背後に黒幕がいたのではないか?ということです。

 この事件は、東京憲兵隊渋谷分隊長兼麹町分隊長であった甘粕正彦憲兵大尉と憲兵隊本部付(特高課)の森慶次郎憲兵曹長が職務上不当行為を行ったとして、軍法会議で甘粕大尉に懲役10年、森曹長に懲役3年との判決が下されました。

 作家の内田魯庵は「凶行の動機が何であろうとも、人を殺して、剰(あま)つさえ頑是ない小児まで殺して(縦令下手人は別人であっても無言の命令を暗示したのは争われない)犯跡を隠蔽しようとした行為を典型的軍人と言えるかどう呼・・・且其の直接の動機を作ったのは馬鹿々々しい滑稽な風説を碌に確かめもしないで軽信した為で話にならない。・・・だがそこに法廷に立ってハッキリ有のままを平たく告白することが出来ない気の毒な事情があるというならば夫は別論だ。」と、甘粕事件の裏に黒幕がいるのではないかとの疑いを抱いており、事件後の展開はその疑念を益々深めていきました。

 橘宗一を殺害したと自首しながら上官の命令に従っただけだとして無罪になった本多憲兵上等憲兵は、法廷で「甘粕か森から上からの命令だときいたか?」「森曹長からそう聞きました。」、「其他にいったのか?」「其後にも森曹長がこれは司令官からの命令だから絶対に口外しちゃいかんといいました。」と供述し、甘粕事件の黒幕が小泉前憲兵司令官であることを明らかにしていました。

 しかし、小泉前憲兵司令官が予審の尋問調書でこの事実を否定したので、この問題はそれ以上追及されず、うやむやにされてしまいました。

 そもそも森曹長は甘粕大尉の直属の部下ではありませんでした。それにもかかわらず、森曹長を自分の部下のごとく扱うためには、甘粕大尉より上位にあるものからの命令が必要です。このことも、黒幕がいるはずだとの説の有力な根拠となっています。

 当時憲兵司令部副官であった上砂勝七は、その著書「憲兵三十一年」で、「大杉の検束は、小泉司令官が甘粕大尉に命じたもの。」と記しています。少なくとも大杉の検束は、司令官クラスから命令が出ていた疑いは限りなく濃いのです。

 その疑いは、甘粕大尉は1925(大正15)年10月、摂政宮(昭和天皇)の結婚による恩赦で仮釈放になるや、陸軍の官費を受けて夫婦でフランスに留学することになった事実によって、確証にまで高められたと言えそうです。

3人もの人間を殺めた犯人に対する処遇とは、余りにかけ離れているからです。

                              つづく