行徳船は、新川口を出た後は妙見島を川下に見ながら新河岸に向かっていました。しかし、明治時代に入ると、浦安と江東区高橋までを1時間30分位で結ぶ蒸気船「通運丸」が走るようになり、この「通運丸」は新川口から妙見島を南下して境川入口付近の蒸気河岸(写真1)から発着するようになりました。この船着場も、今は一片のレリーフ(写真2)を残すのみで、釣り船の係留地になっており、高い護岸に遮られて一般の目には触れにくい殺風景な場所に成り下がっています。
<写真1>
<写真2>
「利根川ばらばら」と題する歌川広重の浮世絵(写真3)が描かれた場所とおぼしき妙見島から浮世絵と同方向に向けて写真を撮ってみました(写真4)。江戸川は、徳川家康の命で利根川の東遷事業が開始されるまでは利根川であったため、昔の名残で「利根川」と呼ばれていたのです。
<写真3>
<写真4>
「堀江ねこざね」と題する歌川広重の浮世絵(写真5)が描かれたとおぼしき浦安市堀江と猫実の間を流れる境川からも浮世絵と同方向に向けて写真を撮ってみました(写真6)。
<写真5>
<写真6>
妙見島といい、境川といい、かっての長閑さは全く感じられない灰色の雰囲気に覆われた地帯になってしまっています。
そんな雰囲気は、あの高い護岸と緑の不足がもたらしているのでしょう。取りあえず緑を増やすこと位、それ程お金を掛けないできるのと思われますがどうでしょうか。